太平洋石炭販売輸送臨港線・雑記

2022-11-27

最後に臨港線や太平洋炭礦に関する資料から、春採(春鳥)炭山の運炭(石炭輸送)に関して、気になったものを適当に抜粋してみました。

2011, 10, 5
中標津発羽田行きの全日空機内より撮影

蛇行するのは釧路川、左端下の光る湖は春採湖

釧路炭田の開発

1856年(安政3年)、箱館(函館)開港にともなって出入りする外国船の燃料補給を目的に桂恋海岸や白糠で官営による採炭が始められました。
その後本格的に採炭が始まったのは明治の中期からです。1897年(明治30年)までに別保、仙鳳跡、春鳥(春採)、別舎無、久寿里などの炭鉱が開発されました。

春採炭山の運炭のはじまり

安田財閥は川湯硫黄山の硫黄の精錬や輸送(川湯硫黄山~標茶間の釧路鉄道(安田鉄道)、標茶~釧路間の川船や港から石炭を運ぶ船の燃料など)のために、釧路の石炭が必要とされ、1887年(明治20年)に春採(春鳥炭山)を開抗しました。
(川湯硫黄山の硫黄は釧路の佐野孫右衛門が採掘を始め、その後採掘権が函館の銀行家山田家に移り、そして安田財閥に移りました。)

石炭は春鳥炭山の坑口(大安坑、明治21~42)から駄馬によって丘を越えて久寿里橋付近の船着場まで運び、川舟に積み替えて標茶へと運搬されました。

初期の運炭ルート 

その後、大成坑(明22~大正元年)が完成したため、石炭の産出量が増大し、1893年(明治23年)に安田財閥は春採湖の西岸の沼尻から米町(米町本通)を経て貯炭場に至る約2Kmの“安田の馬鉄”と呼ばれる馬車軌道を敷設して、石炭の運搬を開始しました。山元から沼尻までは春採湖を渡る川舟で、また結氷期は馬ソリにより運炭しました。

1894年(明治24年)、函館~釧路~霧多布間に定期航路が開設、また1897年(明治30年)に日本郵船と納炭契約が結ばれたため石炭の需要が増えました。

明治の中頃の運炭ルート  

運炭の効率化

1897年(明治30年)に安田財閥は川湯硫黄山の硫黄採掘事業を中止し、標茶~川湯硫黄山の鉄道を売却(売却資金を春採湖のチウイカナイ沢の竪抗の建設にあてて1914年まで稼動)、1914年(大正3年)ついに安田炭礦は閉山しました。1920年(大正6年)、安田炭礦は木村久太郎により買収され、木村組釧路炭礦となりました。木村組は春採湖南岸を開削して馬車軌道を敷設し、春採湖を渡る運炭を廃止するとともに、山元から埠頭までの直通運炭に改めました。
その後、大正9年に鬼呼海岸(弁天ヶ浜)より米町裏の海岸沿い(現在の釧路埼灯台下の海岸)に桟橋を架設し、知人貯炭場までの複線の馬車軌道にし、“米町公道貫通軌道”を撤廃し、今の臨港線(春採~知人)のルートの原形となりました。

大正9年頃の運炭ルート 

太平洋炭礦の創立

第一次世界大戦(1914~1918)に前後し、国内では船舶、鉄道、暖房などの石炭需要の拡大が見込まれ、採炭に国内の大手資本(三井)が参入してきました。
1920年(大正9年)4月22日、木村組釧路炭鉱(春採)と三井鉱山釧路炭鉱(別保)が合併し、太平洋炭礦㈱を創立しました。

「太平洋炭礦」と命名した由来は、初代木村社長が「大きい」さらに「伸びる」の意味と、断層が将来、太平洋の海底に発展するとの意味が込められていると言われています。

運炭の近代化 – 釧路臨港鉄道の創立-

北海道拓殖10年計画が樹立された1901年(明治34年)当時、橋南地区を周遊する官設鉄道建設計画が持ち上がりましたが実現せず、計画は木村組釧路炭礦に引き継がれ、さらにその関係者に計画が受け継がれましたが、第一次世界大戦終結後の財界の反動期に入ったため資金調達の目途がつかず、計画は実現できませんでした。

1922年(大正11年)9月、釧路港の艀(はしけ)業を主要業務とする港湾事業経営者が、海陸連絡設備と鉄道設備の実現の方策を研究し調査を開始。またその他の釧路財界人も加わり1923年(大正12年)1月、別保より春採、知人を経て苧足糸に至る地方鉄道敷設計画が具体的に決定され、ここに釧路臨港鉄道株式会社創立を発起するに至りました。

1923年(大正12年)1月15日、太平洋炭礦と釧路臨港鉄道創立委員(7名)との間で地方鉄道敷設に関する契約書が取り交わされ、同年6月8日鉄道大臣より発起人に対し申請に係わる鉄道を敷設し、貨物の運輸営業を行うことを許可する旨の免許状が交付され、同年12月12日、釧路臨港鉄道株式会社が創立されました。

釧路臨港鉄道の開通と伸延

1925年(大正14年)
2月 7 日 春採~知人(4.425km)開通
2月12日 同営業開始
3月14日 別保(東釧路)~春採(3.219km)開通
3月16日 貨物連絡輸送開始

1926年(大正15年)2月 1 日 旅客、貨物の運輸営業開始 (旅客輸送を切望していた沿線住民の陳情に応えて、沼尻、米町、真砂町に停留所を設置) 混合列車を一日3往復、運賃は大人10銭、子供5銭均一 その後、入舟方面(臨港)へ1.736km延長 

1926年(大正15年)
5月 観月園停留所を設置(冬季休止)

1937年(昭和12年)
1月10日 東釧路~城山間、運輸営業開始

1940年(昭和15年)
8月23日 臨港~入舟町(0.816km)開通
8月24日 同営業開始

この開通によって、城山から東釧路、春採、知人、臨港を経て入舟町に至る釧路臨港鉄道線(11.440km)が全通し、釧路市橋南地帯をめぐる半環状線の完成をみました。

釧路臨港鉄道線 

釧路空襲

1945年(昭20年) 7月14日、15日 米軍機により釧路が空襲される。(波状攻撃)

・14日 5波艇103機
・15日 3波艇 38機
・焼失倒壊家屋、1618戸、死者177名、重軽傷者143名
・その他、南埠頭港湾施設にも甚大な損害を被った

※数字は「臨鉄60年の軌跡 」(太平洋石炭販売輸送㈱臨港鉄道事業本部 昭和59年11月15日発行)による

1945年(昭和20年)8月15日終戦

戦後の復興

終戦後、当時の食糧不足は深刻で、特に東京地方の食糧危機は悲惨な状況を生み出していました。この事態に対処するため、釧路港から救済物資として、馬鈴薯、また燃料不足を救援するため木炭を緊急に送り込む事となり、物資輸送によって臨港鉄道南埠頭に救援物資が集積され、さらに船によって東京に輸送しました。
昭和22年から24年までの3年間における救援物資総輸送量は馬鈴薯53,994トン、木炭48,436トンにも達しました。

路線の縮小、旅客営業の廃止

1942年(昭和17年)
10月20日 真砂町停留所廃止

1953年(昭和28年)
4月16日 永住町開業

1961年(昭和36年)
5月24日 緑ヶ丘停留所(春採~東釧路間)設置、旅客取り扱い開始
5月24日 材木町停留所(東釧路~城山間)設置、旅客取り扱い開始

1963年(昭和38年)
10月31日 旅客、手荷物、小荷物の運輸営業廃止

この旅客営業の廃止によって、大正15年2月から37年に渡り運行されてきた旅客列車は、沿線住民に惜しまれながらその姿を消した。

1966年(昭和41年)
12月1日 入舟町停留所が廃止(臨港~入舟町間廃止)、臨港駅に統合

1985年(昭和60年)
6月1日 城山~東釧路間廃止

1986年(昭和61年)
11月1日 東釧路~春採間廃止
11月1日 知人~臨港間廃止

※ この国鉄への貨物連絡輸送の廃止は、他のローカル鉄道と異なり、もともと石炭輸送を本業としていた釧路臨港鉄道にとっては、それほど問題では無かったと言われています。

さらに効率的な運炭へ

1958年(昭和33年)11月初の自社発注新造ディーゼル機関車(D101)を導入。蒸気機関車に比べて経費が半減するとともに、輸送量が倍増し、輸送量増大に対応する輸送体制が一挙に強化されていきました。
その後、D201、D301、D401、D501、DE601、D701、D801が導入されていったが、現在D101、D201、D301、D501は廃車となりました。

1965年(昭和40年)2月17日、蒸気機関車全廃

同年7月13日、吉田社長が開発した「石炭排出扉自動開閉装置取付セキ号車」の車両改造の認可を申請し、9月8日認可。
1966年(昭和41年)1月10日、春採~知人間の石炭専用列車に「石炭排出扉自動開閉装置取付セキ号車」編成による「シャットル・トレーン方式」を採用して試運転を開始し、4月1日から正式運転が開始。
翌年4月1日、自社開発の新造「連接式石炭車セキ号車」による「シャットル・トレーン」の運用が始まり、この連接式石炭車は、大量、高速、近代輸送にふさわしい性能を持つ車両でした。
この 「シャットル・トレーン方式」 とは、春採~知人間を1時間に1往復するダイヤを組むため、編成の前後にそれぞれ機関車を連結し(プッシュプルのような形)、機関車の入れ替えなしに往復運転、石炭の積み下ろしは編成を2つに分割、そして石炭の排出および貨車の分割併合は運転室からの遠隔操作で行うなど、効率的な輸送方法です。

1967年(昭和42年)4月13日、春採~知人間の重軌条更換(30kg→40kgに変更)工事が竣工
1978年(昭和53年)7月24日、春採~知人間の重軌条更換(40kg→50kgに変更)工事が竣工

「釧路臨港鉄道」から「太平洋石炭販売輸送」へ

1979年(昭和54年)4月30日太平洋炭鉱より生産される石炭の流通部門の一体化を図るため、釧路臨港鉄道㈱は太平洋石炭販売輸送㈱と合併し同社の釧路臨港鉄道本部として発足、5月1日より新体制に入りました。

廃止直前の太平洋石炭販売輸送臨港線 

春採の選炭工場から知人の貯炭場までの石炭輸送の専用鉄道でした。

太平洋炭礦から釧路コールマインへ

国のポスト第8次策「国内炭生産の段階的縮小(1992~2001年)」により、国の石炭政策は2001年度に終了するが、アジア地域産炭国から研修生を国内稼行炭鉱へ受け入れる「炭鉱技術海外移転事業(2002~2006年度)」を実施し、それが完了する5年間は、内外炭価格差を電力料金を通じて国民負担とする。(以降は自由取に移行、引取価格は、その期間の後半においては、トンあたり1万円を下回る水準を実施すべき。)

2001年1月、知人地区の旧採炭現場でCO濃度が上昇したため、注水及び密閉作業が行われた。そのため25日間操業が停止した。
さらに、断層に逢着した事により、2000年度の生産量は目標の210万トンに大きく及ばない154万トンにとどまり、経常利益も44億3600万円の赤字となった。

太平洋炭礦では、前年度から採炭条件悪化が続いており、2002年度以降は石炭鉱業審議会の答申「炭価1トン1万円以下」を達成するようコストに見合った生産体制をとるため、太平洋炭鉱労働組合に対し、年間生産量70万トン、人員500人体制、採炭地区の縮小、海外技術移転事業による研修生受け入れを行う提案がされた。

2001年12月7日に労働組合に対し、2002年1月30日での閉山が正式に提案され、1月14日の臨時大会で閉山合意し、労使は22日に正式調印した。

2002年1月30日、太平洋炭礦は閉山。地域経済の影響も考えて予てから設立されていた釧路コールマイン㈱に、翌日より採炭業務等が引き継がれた。
なお釧路コールマイン㈱は地元の企業が中心となった新会社であり、太平洋グループの出資は行っていない。

(太平洋石炭販売輸送㈱と釧路コールマイン㈱は、全く資本関係の無い会社となった。)

2009, 1, 27
釧路コールマイン

そして今、「釧路コールマイン」は、日本に残る最後の“ヤマ”を守り続けています

- 掘り出せ、釧路の海底そこヂカラ -

<安全、高性能な最新鋭のSD採炭方式>
採掘地域は、海面下約320mで採炭方式は長壁式採炭法を用いており、採炭設備としては、最新鋭のドラムカッターとシールド枠を使用しています。掘進はコンティニアスマイナーとシャトルカーによる機械化掘進をしており、坑道支保は鋼枠とケーブルボルトを状況に合わせて使用しています。

<太平洋の海底下を採掘>
釧路コールマインが採掘している石炭は、釧路市の中心街から広く7kmにわたり海底下に眠っています。
炭層は沖合いに向かって5度~6度の緩やかな傾斜で伸びており、この緩やかな炭層が採炭の機械化に最も適しているため、釧路コールマインは世界有数の機械化炭鉱として操業しております。
炭質は、純一般炭で製品炭の平均発熱量は6,100キロカロリー。硫黄分は0.2~0.3%と少なく、低公害炭として電力を中心に広く利用されています。

<産炭国石炭産業高度化事業>
平成11年8月の石炭鉱業審議会の答申により、平成14年度からベトナム、中国、インドネシアを対象に大規模な炭鉱技術海外移転事業が実施されることとなりました。これに伴い受け入れ研修並びに派遣研修を実施し、産炭国への支援、協力を全社一丸となって進めています。

釧路コールマイン㈱様 会社案内のパンフレットより抜粋

2013, 2, 28
ドラムカッターとシールド枠 < SD採炭切羽方式 > ( 旧太平洋炭鉱 炭鉱展示館)

2013, 2, 28
ドラムカッター (旧太平洋炭鉱 炭鉱展示館)

これで採炭を行います。

2013, 2, 28
コンティニアスマイナー (旧太平洋炭鉱 炭鉱展示館)

この機械で坑道掘進を行います。

2014, 2, 25
シャトルカー (旧太平洋炭鉱 炭鉱展示館)

坑道掘進に使います。

2014, 2, 25
材料鉱車と坑内電気機関車 (旧太平洋炭鉱 炭鉱展示館)

坑内での資材運搬などに用います。

◆ところで石炭って知っていますか?

“燃える石”石炭は戦後日本の復興や近代化を支えた重要なエネルギーです。当時は“黒いダイヤ”と呼ばれ、日本各地で掘り出されていました。
このコーナーでも紹介している通り、日本で唯一坑内掘りの炭鉱(海底炭鉱)である「釧路コールマイン」が、年間約55万トンの石炭を採掘しております。

これが本物の「石炭」です。

◆石炭は過去のエネルギー ?

日本では現在も年間1億8千万トンもの石炭が使われ、なんと世界一の石炭輸入国です。
日本全体で使われるエネルギーの1/5、電力の1/4は石炭(石炭火力発電所)から作られています。
ある方の計算では新幹線の4本に1本は石炭のエネルギーによって走っているという事になるそうです。
石炭は製鉄所での「銑鉄」の製造や製紙工場などでも利用され、石炭火力発電所で燃やされた石炭の灰(フライアッシュ)はセメントの原料として利用されています。

石炭の利点は埋蔵量が石油や天然ガスより豊富であり、また石油の埋蔵が主に中東地域に偏っているのに比べ石炭は世界各地に埋蔵されております。石炭の埋蔵量はあと130年~150年分ぐらいあると言われています。


◆石炭はこれからも世界で安心して利用されていくエネルギー(^-^) 

石炭は環境負荷が高いエネルギーと言われますが、石炭をガス化して燃焼効率を高め埋蔵寿命を伸ばしたり、CO2を大気中に放出しないで地下に貯蔵するという環境に優しい技術(クリーン・コール・テクノロジー)が研究されています。

中国やインドなどが経済発展のため、今後石油や石炭、天然ガスの利用の増大が考えられます。日本の進んだ石炭採掘技術や環境に優しく利用する技術を世界に広めていけば、石炭はこれからも世界で安心して利用されていく新しいエネルギーと言えます。

(2011年頃の考え方です。)

2011, 10, 17
釧路石炭販売

印象的な“太平洋の海底炭”というノボリがはためく。

太平洋石炭販売輸送臨港線 廃止

石炭の輸送量減少等により、太平洋石炭販売輸送臨港線は2019年3月末日より運休、同年6月末日で廃止となりました。

なお釧路コールマインの石炭輸送はトラック輸送のみとなりました。

商号を新太平洋商事株式会社に改名

「太平洋石炭販売輸送株式会社」は令和元年(2019年)6月30日をもって鉄道事業を廃止されたこと等もあり、令和2年(2020年)4月1日に商号を「新太平洋商事株式会社」と改めました。

石炭列車(機関車、石炭車)全て解体

石炭列車は日本の企業を経て海外に売却される予定でしたが、コロナのためにキャンセル、国内の売却先も探したそうですが、それも見つからず、また市内に展示スペース(土地)はあるものの輸送費がかなりかかり解体しか選択肢はなかったそうです。(2022年9月下旬発表、解体は2022年度12月末までに完了予定)

このコーナーの参考資料です

  • 臨鉄60年の軌跡 (太平洋石炭販売輸送㈱臨港鉄道事業本部) 昭和59年11月15日発行
  • 釧路市史研究 第4輯 特集号「太平洋炭砿の軌跡」釧路市総務部地域資料室編 平成16年3月31日発行
  • 釧路市史研究 第5輯 「続・太平洋炭砿の軌跡」釧路市総務部地域資料室編 平成18年1月発行
  • 釧路歴史散歩(上) 佐藤尚著 釧路新書9 昭和57年7月10日発行
  • 海底力モニターツアー「冬のSLと石炭のマチ・釧路」釧路臨港鉄道の会 2011, 2, 18 ~ 2, 20の冊子
  • 消えた轍 ローカル私鉄廃線探訪記 Ⅰ、北海道 寺田裕一著 ネコパブリッシング 2004, 12, 21発行
  • 鉄道車両メカニズム図鑑  伊原一夫著、グランプリ出版1992, 6, 19発行
  • ローカル私鉄車両20年 第三セクター、貨物車両編 寺田裕一著 JTBブックス
  • シリーズ「ふるさとの地名めぐり」釧路地方の地名由来(釧路地方の地名を考える会 古谷達也ほか)
     釧路新聞連載 2005, 5, 16~ 2008, 5, 8
  • 道東歴史散歩シリーズⅦ ヒブナの里、春採湖周辺石碑めぐり散歩 (道東歴史散策隊編)
  • 特別展 炭鉱ヤマのくらし・マチの記憶 図録 釧路市立博物館 2009, 11, 7発行
  • 証言集 ヤマの残響 佐藤進編 緑鯨社 1999, 9, 13発行
  • 釧路コールマイン㈱様 会社案内のパンフレット

最後に、「海底力ツアー」などで釧路の鉄道愛好団体「釧路臨港鉄道の会」の皆様より「太平洋石炭販売輸送臨港線」などについての詳しいお話を頂き、とても参考になりました。どうもありがとうございました。お礼を申し上げます。

※なお、資料が古かったり、地球温暖化に伴う世界的な傾向として「再生可能エネルギー(脱炭素社会)」にシフトされつつあり、現状と異なる場合があります。
釧路の経済を支えたひとつの大きな産業として見て頂ければ幸いです。

(初公開 : 2011年、最終更新2021年9月)


太平洋石炭販売輸送臨港線・雑記

Posted by でぇあぶつさん