相模大野散歩 – 名所・旧跡
青柳寺
![青柳寺](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_08831.jpg)
2014, 1, 17
青柳寺
![青柳寺山門](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_08841.jpg)
2014, 1, 17
青柳寺山門
山号を「方運山」と言います。
日蓮宗のお寺です。
![青柳寺境内](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_088911.jpg)
2014, 1, 17
青柳寺境内
昭和44年に失火により本堂などを焼失。翌々年に再建されました。
![青柳寺の解説板](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_12011.jpg)
2013, 3, 23
青柳寺の解説板
この寺は山号を「方運山(ほううんざん)」といい、日蓮宗身延山久遠寺の末寺です。これの由来については、足利義昭に仕える渋谷越後守義重(しぶやえちごのかみよししげ)という人が、夢のお告げによってこの地に寺院を建てることを志し、僧律正院日題(りっしょういんにちだい)と共に天正年間(1573-1592年)に開山したと伝えられています。
相模原市 相模原市観光協会
義重はその後出家し、方運院義重日後(ほううんいんよししげにっこう)と称しています。
境内にあった旧庫裡は、県の重要文化財に指定されています。
また明治時代に農民のために運動した「武相困民党(ぶそうこんみんとう)」はこの寺の境内で決起され、後年その記念碑が建てられています。
相模原市 相模原市観光協会「青柳寺」の解説板より
![武相困民党発祥之地の碑](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_119311.jpg)
2013, 3, 23
武相困民党発祥之地の碑
この青柳寺の大きな出来事として、明治時代にこの地を揺るがした「武相困民党」事件があります。
武相困民党事件とはいわゆる“百姓一揆”のようなものですが、この事件はこのお寺が発祥とのことです。
この事件の概略が、この碑に刻まれています。
明治十七年(一八八四年)七月三十日、上鶴間とその周辺の農民三百人は、金融会社の負債問題を協議するため、当青柳寺の境内に集まった。その集会こそ、その後数か月に渡って武相の山野を揺るがした、武相困民党のさきがけをなすものであった。つづく八月十日には、上鶴間村を先頭に、数千人の農民が御殿峠に蜂起し、武相七郡百五十ヶ村に及ぶ一大組織に発展していった。
この困民党事件は、先行する自由民権運動の影響下で、借金地獄からの脱出と生存の自由を求めて立ち上がった運動であった。しかしその壮大な運動も翌十八年一月には、権力の弾圧の前に力尽きて潰滅した。ここに武相困民党100周年を記念し、事件の概要と指導者の名を勒して、その事績を伝える。
…略… (ここに事件の指導者名、この碑の建立者名が刻まれています。)
一九八六年十一月十九日
「武相困民党発祥之地の碑」より
因みに、この石碑に刻まれている事件の首謀者のひとり「渋谷彦兵衛」という人物は、実は私の母方の曾祖父なのです。彦兵衛さんはとても酒飲みで、40代の若さで亡くなったという事です。
お袋が昔、祖母(私から見ると曾祖母)から聞いた話だと、大昔には青柳寺の裏に「陣屋」もあったそうで、歴史的にかなり重要な寺であった事が伺えます。
その他、寺にあった「庫裡(くり)」は、神奈川県の重要文化財として、相模川自然の村公園(相模原市緑区)に移築されています。
![青柳寺鐘楼](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_089811.jpg)
2014, 1, 17
青柳寺鐘楼
![当病平癒 浄行堂](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_09031.jpg)
2014, 1, 17
当病平癒 浄行堂
![浄行菩薩](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_090911.jpg)
2014, 1, 17
浄行菩薩
病の部分をたわしで洗うと、病気が治ると言われています。
お袋も小さい頃、祖母(私から見ると曾祖母)に連れられて、「いい子になりますように…」と、この菩薩様の頭をたわしで洗ったと言う話です。
![菩薩像](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_09051.jpg)
2014, 1, 17
もう一体菩薩像がありますが、詳細は不明。
![青柳寺 庫裡](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_62161.jpg)
2014, 6, 4
青柳寺 庫裡 (相模川自然の村公園 ・相模原市緑区)
庫裡は僧侶の居住する建物。
江戸時代中期(18世紀初期)の建築との事です。
現在は相模川自然の村公園 (相模原市緑区)に移築されています。
![青柳寺 庫裡](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_620111.jpg)
2014, 6, 4
青柳寺 庫裡 (相模川自然の村公園 ・相模原市緑区)
土間にある「かまど」
![青柳寺 庫裡](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_62051.jpg)
2014, 6, 4
青柳寺 庫裡 (相模川自然の村公園 ・相模原市緑区)
内部の見学は自由です。
![青柳寺 庫裡](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_62081.jpg)
2014, 6, 4
青柳寺 庫裡 (相模川自然の村公園 ・相模原市緑区)
鹿島神社
![鹿島神社](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_087711.jpg)
2014, 1, 17
鹿島神社
青柳寺の隣に鹿島神社があります。
「鹿島神社は創建当時には鹿島大明神と称し、四百年以上前にこの地にあり、現在地には二百年程前に遷し奉られました。」
「地元の人々が総代 ・世話人を務め、地域に密着し、祭事を執り行っております。
崇敬者の数は非常に多く、尊崇日々に厚いものがあります。」「鹿島神社様のパンフレット」より
鹿島神社様のパンフレット
「鹿島神社様のパンフレット」より
![鹿島神社](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_088111.jpg)
2014, 1, 14
鹿島神社
![鹿島神社](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_083512.jpg)
2014, 1, 17
鹿島神社
![鹿島神社境内](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_083611.jpg)
2014, 1, 14
鹿島神社境内
![おみくじ](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_091711.jpg)
2014, 1, 17
おみくじ
![鹿島神社 由緒沿革 解説板](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_12051.jpg)
鹿島神社 由緒沿革 解説板
鹿島神社の御祭神は、武甕槌命(タケミカツチノミコト)で、この社は関東を中心に広がっている鹿島神社の総本社・鹿島神宮(茨城県)の祭神として知られている。
平成二十二年六月 再編纂 鹿島神社氏子総代
当鹿島神社の創建も、おそらく建久年間(1190-1199)に源頼朝が鶴舞の里(鶴間)に鶴舞神社(今の浅間神社)を創建したと伝えられる頃、これに因んで村人が相前後して、関東・東北地方を開拓され、そして農耕と深く関係する武甕槌大神を祀る鹿島神宮のご分霊を各々の村に勧請した神社の一つであろうと思われる。
新編相模風土記によると町田森野と鵜野森(大正十年日枝神社に合祀)と谷口村下森の、約三百米離れた所に各々鹿島神社があったので、土地の人は三鹿島と呼んでいたという。当時谷口村に居住していた、渋谷越後守義重が今から四百十六年前の文禄三年(1594)に谷口村総鎮守鹿島大明神より分霊を我が屋敷内に移し奉り守護神とした、とあることからその前から当鹿島神社が村の鎮守様として親しまれていたのは明らかである。
正徳元年(1711)に社殿を再建したが、場所が谷口村の北辺の高座川(今の境川)の端の下森にあり何かと参拝に不便であった為、享和元年(1801年・今から209年前)八月、現在地に遷宮した。それから4年後の文化二年(1805)に下森の遷宮跡地は石宮を建設し、鎮守古宮と称した。現在は同地の区画整理により、石宮を上鶴間本町二丁目十一番の地に遷し奉った。
(略)
それまで鹿島神社の行事の全ては青柳寺の歴代住職が斎行し、神社の名称も鹿島大明神または鹿島大神宮などと称されていたが、明治元年(1868)三月、神仏分離令が発せられて明治四年以降は無格社 鹿島神社と称す。
(略)
「鹿島神社由緒沿革解説板」より抜粋
![大自在天満宮](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_09122.jpg)
2014, 1, 17
大自在天満宮
天神様です。
鹿島神社の境内の片隅に奉られています。
古宮鹿島神社
![古宮鹿島神社](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_094311.jpg)
2014, 1, 18
古宮鹿島神社
鹿島神社が現在の地に遷宮された下森の跡地に石宮を建設し「鎮守古宮」と称したが、区画整理により石宮をこの境川沿いの上鶴間本町二丁目十一番に遷し奉った。
私が初めてこの街を訪れた昭和40年(1965年)頃、このあたりは一面の田んぼで、古宮は田んぼの際の急な階段を登った上に鎮座していたようですが(お袋に教えてもらった)、急な階段で尚且つ寂しい場所だったので、4~5歳の私一人では行く勇気は無かったです。
谷口山野稲荷神社
![谷口山野稲荷神社](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2023/04/DSC_7936.jpg)
2023, 4, 29
谷口山野稲荷神社
相模大野駅近く、行幸道路の谷口交差点から看板と鳥居が見えます。
正一位蚕守稲荷大明神(しょういちいこもりいなりだいみょうじん)です。
谷口山野稲荷神社(やぐちさんやいなりじんじゃ)とも呼ばれているそうです。
昔、養蚕が盛んだった頃、お蚕(かいこ)様を祀る神社でした。
![谷口山野稲荷神社](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2023/04/DSC_7945.jpg)
2023, 4, 29
谷口山野稲荷神社
講中の方々や参拝者の奉納により、令和4年11月に多くの鳥居が建立されました。
![谷口山野稲荷神社](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_223211.jpg)
2012, 4, 17
谷口山野稲荷神社
昔、お袋が祖母(私の曾祖母)から聞いた話などよりますと、毎年4月17日は「大題目(祭礼の日)」という事で、昔は露店が出てとても賑わったそうです。
また、地元のKさんの話では、昔(Kさんが小さい頃)2月上旬の「初午」、7月下旬の「例大祭」も賑わいを見せていたそうで、つまり「初午」、「大題目」、「例大祭」と年に3回賑わっていたようです。 「大題目」 の日には露店の他に芝居小屋などが出たそうで、敷地が狭いので他所のお宅の敷地を借りて芝居小屋を設置されたそうです。
現在、講中は50名程、7年に一度「当番」が回ってくるそうです。4月17日の「大題目」の日に、講中の方々が谷口の「青柳寺」の住職を呼んでお経をあげる程度との事です。
ノボリは講中の方々より年に一回交換されているそうです。
現在の本殿は昭和8年の建立との事です。
![谷口山野稲荷神社](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2023/04/DSC_7950.jpg)
2023, 4, 29
谷口山野稲荷神社
![谷口山野稲荷神社](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2023/05/DSC_7980.jpg)
2023, 4, 29
谷口山野稲荷神社
![谷口山野稲荷神社](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2023/04/DSC_7957.jpg)
2023, 4, 29
谷口山野稲荷神社
![谷口山野稲荷神社](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2023/05/DSC_7985.jpg)
2023, 4, 29
谷口山野稲荷神社
![谷口山野稲荷神社](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2023/04/DSC_7963.jpg)
2023, 4, 29
谷口山野稲荷神社
![谷口山野稲荷神社](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2023/04/DSC_7964.jpg)
2023, 4, 29
谷口山野稲荷神社
![谷口山野稲荷神社縁起 解説板](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2023/05/DSC_8020.jpg)
2023, 5, 3
谷口山野稲荷神社縁起 解説板
谷口山野稲荷神社縁起
当稲荷神社は 谷口郷霊現閣と称し 安永三年(1774年)徳川十代将軍家治の時代には すでに祀られていた
嘉永七年(1854年)正月に 京都伏見稲荷大社より蚕守と記されている 御霊をいただいた
当時 唯一の産業であった養蚕の神として崇拝され 毎年四月十七日の大題目(祭礼)には 近郷近在よりの参拝者によって 境内はあふれる程の賑わいで 皆養蚕の豊作を祈ったのである
社会の変遷により養蚕農家もなくなり現在では 五穀豊穣 家内安全 学業成就 交通安全など 招福除災の神として 人々から信仰されている
平成十年(一九九八)七月二十四日
「谷口山野稲荷神社縁起」解説板より
相模大野駅(さがみおおのえき)
![](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2021/09/DSC_6863_00001.jpg)
2021, 9, 20
この街の中心「相模大野駅(さがみおおのえき)」
神奈川県の政令指定都市である相模原市(さがみはらし)は人口約72万人(2015年度)、その南の玄関口である小田急線相模大野駅は1日の乗降客数は約8万7千人、都心へのベッドタウンとして通勤の方々、また駅周辺の大学や高校の学生の方々で賑わっています。
小田急小田原線(新宿-小田原間)の開通は昭和2年(1927年)、その翌々年の昭和4年(1929年)に江ノ島線((大野信号所(現相模大野駅)-片瀬江ノ島))が開通しました。
この街で生まれ育ったというある飲食店のママさんが聴いたご高齢のお客さんのお話だと、昔はこの辺りは人家も少なく、畑もあったけどススキの原(茅の原)も多く、これは土地が赤土(関東ローム層)を多く含み、痩せて水の利が悪く、畑の作があまり芳しくなかったという事。だから農家の方々は節約に節約をしてきたそうです。あちこちに稲荷様が祀られているのも頷けます。農家が現金収入を得る為に「お蚕(かいこ)様」を飼ったり、「柴胡(ミシマサイコ)」という薬草を栽培したご苦労もあったという。
そのママさんが子供の頃、「南新町(駅の南側)」に遊びに行く時、親御さんから「日が暮れるまでに早く帰りな」とよく窘められたそうだ。それはなんと「狸や狐が出てきて化かされる」からだと。そう言えば「居酒屋ガクさん」のトレードマークは狸で、店の前には大きな“ガクさん狸”が飾られています。この街は狸も居心地が良かったのかも知れません。
今は亡き私のお袋は昭和3年にこの近くの谷口(上鶴間本町)で生まれ、良く思い出したように昔話をしていました。
相模大野駅は昔は駅ではなく「信号所」で、「今日もおじさんが手動でポイントをガッチャンと動かしていたよ」と。お袋は小田急勤務の方のご子女の友達がいて、良く遊びに行っていたそうでした。
早春になるとススキの原に“びんたぼ”の花が咲き、お袋はこの花が大好きでした。“びんたぼ”の標準和名は「オキナグサ」。白い初毛に覆われ渋めの花を俯き加減に咲かす姿を「翁」や「髪(びん)の“たぼ”」を彷彿とさせる花。
秋になるとススキの原にワレモコウ見られ、この花もお袋は好きだったようでした。この付近は随分と野の花が咲いていたそうです。
深堀川流域には森が多かったようで、子供だったお袋は一人でこの森に迷い込み、孵ったばかりのたくさんのヘビ(ヤマカガシ?)の子に遭遇し、ヘビの子たちが一斉に鎌首を持ち上げた姿を見て“全身の血の気が一気に引く思い”だったと。恐らく人生のなかで一番怖かった出来事だったと。
その後「大野信号所」は「通信学校前」という駅に昇格し「相模大野」駅と改称されました。
私が初めて相模大野駅に来たのは昭和40年(1965年)頃。東京の新宿で生まれ育った私ですが、里帰りでお袋に手を引かれながら訪れました。里帰りは夏休みの時が多かったから、相模大野は夏のイメージ(入道雲とひぐらし鳴き声)があります。
新宿から乗った小田急線の急行電車は、オレンジとダークブルーのツートンカラーやこげ茶色の電車で、相模大野駅で小田原方面と片瀬江ノ島方面に切り離ししました。
相模大野駅に着いてホームの跨線橋を渡ると、「あれが大山だよ」とお袋が指をさして、大きく聳える大山が望めました。
駅前のバスロータリーはまだ舗装されて無かった覚えがあります。お袋の実家は谷口ですから、線路沿いに町田(当時は新原町田)方面に戻るように歩き、どんよりと澱んだ深堀川を渡り、畑の中の小さな踏切を渡り、国道16号(産業道路)を渡ります。この国道16号は当時は土の築堤(小田急線との立体交差のため)で、直接渡る近道は築堤に付けられたふみ跡を登って渡るのですが、当時は今とは考えられないくらい交通量が少なく、手を上げればクルマが止まってくれたほどのんびりとしていました。この築堤から相模大野駅を振り返ると、畑と小さな踏切と相模大野駅、彼方に大山が聳え、一服の絵を見るようでした。
私がこの町に越して来たのは昭和60年(1985年)。駅は初めて来た時のままでしたが、再開発が少しずつ始まりました。
国道16号の築堤はコンクリートの立体交差となり、深堀川は暗渠となりました。少しずつマンションが増え、ペデストリアンデッキができ、駅の新築、駅ビル(ステスク、ホテル)やモアーズができ伊勢丹ができて、南口も整備され、やがて西友や古いショッピングセンターの跡地にボーノができて、小粒ながらきれいな街に生まれ変わりました。
残念ながら伊勢丹は無くなりましたが、跡地に高層マンションが建築予定です。
「狸の住んでいた街」は今では多くの「人々の住む街」に変貌しています。
相模大野報徳二宮神社
![相模大野報徳二宮神社](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_095311.jpg)
2014, 1, 19
相模大野報徳二宮神社
![相模大野報徳二宮神社](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_09521.jpg)
2014, 1, 19
相模大野報徳二宮神社
![相模大野報徳二宮神社](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_09511.jpg)
2014, 1, 19
相模大野報徳二宮神社
相模大野駅近く、マンションに囲まれて、ひっそりと社があります。
私が相模大野に越してきた1985年頃は、この辺りは畑で、その片隅に小さな祠がありました。
その後仮の社殿が建てられ、近年新築されました。
私も近くを通った際には、お詣りさせて頂いております。
![二宮尊徳像](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_095711.jpg)
2014, 1, 19
二宮尊徳像
![二宮金次郎(尊徳)解説](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_09551.jpg)
2014, 1, 19
二宮金次郎(尊徳)解説
二宮金次郎(尊徳)
二宮金次郎は天明七年(一七八七)七月二十三日相模国小田原領内の栢山村で生まれる。
幼少の頃貧しい生活に見舞われ、親孝行をしながら勉学に励み勤倹力行(倹約をして働くこと)の模範的人物として伝えられ、少年時代の銅像が各所に建てられた由来です。
金次郎は報徳の精神(至誠・勤労・分度・推譲)の教えを地域に広めようと封建時代の苦しい生活を今までの経験を生かし、報徳仕法(その土地にあった方法)という独自の方法を考案し、関東地方を中心に次々と農村の救済にあたり、七十歳で生涯を閉じるまで封建制という社会のしくみの中で最も効果的な方法で多くの農民の立て直しに成功したのです。
明治以降神様として崇められ、報徳二宮神社として祀られるようになり、国内で二十余社を有し、報徳社等思想を継承する団体が百五十社以上あるといわれる。
「二宮金次郎(尊徳)」解説板より
![報徳訓](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_09561.jpg)
2014, 1, 19
報徳訓
報徳訓
父母の根源は天地の命令に在り
身体の根源は父母の生育に在り
子孫の相続は夫婦の丹精に在り
父母の富貴は祖先の勤功に在り
吾身の富貴は父母の積善に在り
子孫の富貴は自己の勤労に在り
身命の長養は衣食住の三に在り
衣食住の三は田畑山林に在り
今年の衣食は昨年の産業に在り
来年の衣食は今年の艱難に在り
年々歳々報徳を忘るべからず
「報徳訓」解説板より
なるほど、古い言葉ながら、何故か言い得て妙だなあと思います。
二宮神社
![二宮神社](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_096011.jpg)
2014, 1, 19
二宮神社
小田急相模原駅近くにも二宮神社があります。
こちらも戦後、地域住民の心の拠り所として建てられたそうです。
![二宮尊徳像](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_09671.jpg)
2014, 1, 19
二宮尊徳像
![二宮神社](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_097111.jpg)
2014, 1, 19
二宮神社
長嶋神社
![長嶋神社](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_13651.jpg)
2015, 3, 13
長嶋神社
![「長嶋神社御由緒の概要」解説板](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_13671.jpg)
「長嶋神社御由緒の概要」解説板
「長嶋神社御由緒の概要」
長嶋神社の御稱号は、国土日本列島を表現して呼稱し奉ったものと解せられ、御祭神伊邪那岐命、伊邪那美命は我が国の御祖神であらせられる。
創立年月は不詳であるが、旧鎌倉道に近いこと及び付近の小字道正山より康暦年間の板碑等が発掘されたことなどを照合すると、鎌倉時代に既に創立されていたものと推察される。
長嶋神社は当地域(字中和田)在住の氏子の鎮守氏神として住民総ての信仰の的となっているが、昭和二十年頃までは東林間、翠ヶ丘、小田急相模原駅付近(西側は座間市、北側は旧字谷口との境)までの広範囲な地域にわたり氏子を擁していた。
(略)
現在の社殿は昭和三十六年(一九六一年)に従来の茅葺屋根を銅板葺として新しく造営され今日に至っている。
(略)
境内の併祀神社
八坂神社 須佐之男命
山神社 天満宮 大山不動
秋葉社 神倭伊波札毘古命 地神塔
石神井社 大六天社 道祖神
伊勢山社 山王社
神明社
北向庚申塔
白瀧弁天宮
石上社
「長嶋神社御由緒の概要」解説板より抜粋
![八坂神社 (長嶋神社境内)](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_798111.jpg)
2016, 2, 11
八坂神社 (長嶋神社境内)
![石上社 (長嶋神社境内)](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_13611.jpg)
2015, 3, 13
石上社 (長嶋神社境内)
![北向庚神社 (長嶋神社境内)](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_79901.jpg)
2016, 2, 11
北向庚神社 (長嶋神社境内)
![白瀧弁天宮 (長嶋神社境内)](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_13641.jpg)
2015, 3, 13
白瀧弁天宮 (長嶋神社境内)
![長嶋神社境内にお祀りしてある「石祠」](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_79831.jpg)
2016, 2, 21
長嶋神社境内にお祀りしてある「石祠」
![長嶋神社境内にお祀りしてある「石祠」](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_79851.jpg)
2016, 2, 21
長嶋神社境内にお祀りしてある「石祠」
右から…
山神社
秋葉社
石神井社
伊勢山社
神明社
天満宮
神倭伊波札毘古命
大六天社
山王社
大沼神社
![大沼神社](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_08551.jpg)
2014, 1, 16
大沼神社
弁天様を奉る神社との事。
お袋は訪れた事が無いものの、昔、お袋が祖母(私から見ると曾祖母)に聞いた話だと、この神社にはヘビが住んでいて、そのヘビを奉っていたという。
![大沼神社](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_08591.jpg)
2014, 1, 16
大沼神社
神社の周囲は堀のようなもので丸く廻らされていました。
![大沼神社](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_08641.jpg)
2014, 1, 16
大沼神社
相模原市慰霊塔
![](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_121412.jpg)
2013, 3, 26
相模原市慰霊塔参道
![相模原市慰霊塔参道](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_121811.jpg)
2013, 3, 26
相模原市慰霊塔参道
![相模原市慰霊塔](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_28291.jpg)
2014, 3, 31
相模原市慰霊塔
地元では「忠霊塔」と呼ばれています。
「市内戦没者を永遠に合祀して、御霊の御冥福と郷土の繁栄、世界平和を祈る聖域」という場所です。
![「相模原市慰霊塔の沿革」の碑文](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_15831.jpg)
2014, 1, 31
「相模原市慰霊塔の沿革」の碑文
相模原市慰霊塔の沿革
「相模原市慰霊塔の沿革」碑文より
相模野の緑深き ここ大沼の地を選んで「相模原市慰霊塔」の基となった「相模忠霊塔」が建立されたのは昭和十八年八月である 当時の日本は苛烈な太平洋戦争のただ中にあり 国運急を告げ 軍備拡充が進められていた広大な原野を有していた相模原にはすでに昭和十二年ごろから陸軍関係施設が相次いで建設され 昭和十四年には陸軍電信第一連隊が東京から転営昭和十五年に陸軍衛生病院が開院 昭和十八年には 地元並びに近郷住民の協力のうちに軍により「相模忠霊塔」が建立された
その後 本土が直接戦禍を被る中で迎えた終戦(昭和二十年八月)は我が国の社会経済に多大な影響を及ぼし人心や日々の生活は動揺の極みに達した その中にあっても 祖国の安泰と繁栄を願い 己が命を国に捧げられた諸霊に対する敬愛追慕の情はいよいよ深く 多くの人々による忠霊塔の護持活動は間断もなく続けられた その結果昭和二十四年五月 ついに国から土地施設の一切が当時の相模原町に譲渡された
そして昭和二十七年七月住民総意のもと条例をもって「相模原町慰霊塔」として設置し 市内戦没者等を永遠に合祀して 御霊のご冥福と郷土の繁栄世界の平和を祈る聖域とした それからは毎年秋に相模原市が合同慰霊祭を執り行い 市民あげて尊崇の誠を捧げ平和への願いを新たにしている
昭和五十四年十月吉日
相模原市長 舘盛静光
「相模原市慰霊塔の沿革」碑文より
![さきの大戦における主要戦域別陸海軍人軍属戦没者数一覧図](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_08711.jpg)
2014, 1, 14
さきの大戦における主要戦域別陸海軍人軍属戦没者数一覧図
祈平和
「さきの大戦における主要戦域別陸海軍人軍属戦没者数一覧図」碑文より
さきの大戦において 二百万人を超える人々の尊い犠牲がありましたことは 永遠に忘れてはならない深い悲しみであります
戦後五十年を迎えここに記すとともに 私達は心を新たにし 常に恒久平和を目指し たゆみない努力を続けてまいります
平成七年八月
相模原市長 舘盛静光
「さきの大戦における主要戦域別陸海軍人軍属戦没者数一覧図」碑文より
ソ連邦 | 52,700 |
樺太千島 | 8,800 |
アッツ島 | 7,600 |
満州 | 46,700 |
朝鮮 | 26,500 |
日本本土 | 103,900 |
中国本土 | 455,700 |
沖縄 | 89,400 |
小笠原 | 35,200 |
ビルマ | 164,500 |
台湾 | 39,100 |
タイ | 7,000 |
仏印 | 12,400 |
フィリピン | 498,600 |
中部太平洋諸島 | 197,600 |
アンダマン、ニコバル | 2,400 |
マライ、シンガポール | 11,400 |
モルッカ | 4,400 |
ビスマルク諸島 | 30,500 |
スマトラ | 3,200 |
ボルネオ | 18,000 |
ジャワ | 6,500 |
セレベス | 5,500 |
東部ニューギニア | 127,600 |
小スンダ、西部ニューギニア | 82,600 |
ソロモン諸島 | 88,200 |
総数 | 2,121,000 |
「さきの大戦における主要戦域別陸海軍人軍属戦没者数一覧図」より
畑地かんがい用水大野支線
![](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_214111.jpg)
2012, 4, 16
畑地かんがい用水大野支線
木もれびの森の中に、灌漑用水の遺構が残っています。
![「畑地かんがい用水大野支線」解説板](https://chaenomeles.net/wp-content/uploads/2019/10/DSC_21381.jpg)
2012, 4, 16
「畑地かんがい用水大野支線」解説板
相模原市登録有形文化財
「畑地かんがい用水大野支線」解説板より
畑地かんがい用水大野支線
畑地かんがい用水は、戦後、食糧難を補う食料増産のため、県営事業として昭和38年に完成しました。しかし、その後の食糧事情の好転や都市化により、充分に機能しないうちに使われなくなってしまいました。
「大野支線」は東幹線からの支線で、相模緑道緑地として整備されていますが、ここは当時の様子を伝える貴重なものです。
登録年月日 平成15年4月1日
相模原市教育委員会
「畑地かんがい用水大野支線」解説板より