釧路散歩 – 石川啄木 –

2021-02-28

小学校の国語で多分誰もが習ったであろう、この印象的な短歌

たはむれにはは背負せおひて
そのあまりかろきにきて
三歩さんぽあゆまず

石川啄木「一握の砂」我を愛する歌

はたらけど
はたらけどなほわが生活くらしらくにならざり
ぢっと

石川啄木「一握の砂」我を愛する歌

ふるさとのなまりなつかし
停車場ていしやばひとごみのなか
そをきききにゆく

石川啄木「一握の砂」煙 ニ 

これらは石川啄木(1886-1912)の代表的な短歌です。


釧路駅を出発する「SL冬の湿原号」

2011, 2, 19
釧路駅を出発する「SL冬の湿原号」

石川啄木は1908年(明治41年)1月21日、旧釧路新聞(現北海道新聞などの前身)に赴任するために家族を小樽に残し、釧路新聞の白石社長と共に旭川を早朝6時半発の一番の汽車でたちました。長い狩勝トンネルを抜けて、広大な十勝の大地を走り帯広を通過、夜9時半に帝国鉄道釧路線さいはての釧路駅に到着しました。
(当時は滝川・富良野間は開通していなかったので、現在の旭川~富良野線~富良野~根室本線~帯広~釧路という経路となります。)

啄木日誌より

一月二十一日
 於釧路
 午前六時半、白石氏と共に釧路行一番の旭川発に乗つた。
程なくして枯林の中から旭日が赤々と上がった。空知川の岸に添うて上がる。此辺が所謂最も北海道的な所だ。
 石狩十勝の国境を越えて、五分間を要する大トンネルを通ると、右の方一望幾百里、真に譬ふるに辞なき大景である。滊車は逶迤たる道を下つて、午后三時半帯広町を通過、九時半此釧路に着。

石川啄木著「明治四十一年日誌」明治四十一年一月二十一日
石川啄木全集 第五巻 筑摩書房 昭和53年4月25日 初版
釧路駅を出発する「SL冬の湿原号」

2014, 2, 24
釧路駅を出発する「SL冬の湿原号」

水蒸気すゐじようき
列車れつしやまどはなのごとてしをむる
あかつきのいろ

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

釧網線釧路湿原~細岡間をゆく「SL冬の湿原号」

2011, 2, 26
釧網線釧路湿原~細岡間をゆく「SL冬の湿原号」

ごおとる凩こがらしのあと
かわきたる雪ゆきひ立ちて
はやしを包つつめり

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

2011, 1, 29
釧路川橋梁をゆく「SL冬の湿原号」

空知川そらちがはゆきうもれて
とりもみえず
岸辺きしべはやしひとひとりゐき

石川啄木「一握の砂」 忘れがたき人人

塘路駅の白樺並木をゆく「SL冬の湿原号」ヘッドマーク無

2012, 3, 15
塘路駅の白樺並木をゆく「SL冬の湿原号」ヘッドマーク無

寂寞せきばくてきとしともとし
ゆきなか
なが一生いつしやうおくるひともあり

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

摩周駅を出発する「SL冬の湿原号(川湯延長運転)」

2011, 1, 23
摩周駅を出発する「SL冬の湿原号(川湯延長運転)」

いたく汽車きしやつかれてなほ
きれぎれにおもふは
われのいとしさなりき

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

塘路駅付近をゆく「SL冬の湿原号」

2014, 2, 21
塘路駅付近をゆく「SL冬の湿原号」

うたふごとえきびし
柔和にうわなる
わか駅夫えきふをもわすれず

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

釧網線五十石~標茶間をゆく「SL冬の湿原号」

2011, 2, 27
釧網線五十石~標茶間をゆく「SL冬の湿原号」

ゆきのなか
処処しよしよ屋根やねえて
煙突えんとつけむりうすくもそらにまよへり

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

サルルン三角点より

2012, 2, 14
サルルン三角点より

遠くより
ふえながながとひびかせて
汽車きしやいまとある森林しんりん

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

釧路川橋梁をゆく「SL冬の湿原号」

2011, 2, 28
釧路川橋梁をゆく「SL冬の湿原号」

何事なにごとおもふことなく
日一日ひいちにち
汽車きしやのひびきにこころまかせぬ

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

釧路駅にて「SL冬の湿原号」

2013, 2, 24
釧路駅にて「SL冬の湿原号」

さいはてのえき
ゆきあかり
さびしきまちにあゆみりにき

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

1908年(明治41年)1月21日 石川啄木は釧路駅に降り立ちました。

港文館前の石川啄木像

2011, 1, 30
港文館前の石川啄木像

啄木 ・雪あかりの町 ・くしろ

2016, 1, 23
啄木 ・雪あかりの町 ・くしろ

釧路停車場跡

2016, 2, 26
釧路停車場跡

啄木の降りた“さいはての駅”「釧路停車場」は現在のJR釧路駅ではなく、釧路市交流プラザさいわい付近にあった「浜釧路駅」です。(現在は浜釧路駅はありません。)

啄木日誌より

停車場から十町許り、向かへに来た佐藤国司氏らと共に歩いて、幣舞橋といふを渡つた。浦見町の佐藤氏宅に着いて、行李を下す。秋元町長、木下成太郎(道会議員)の諸氏が見えて十二時過ぐる迄小宴。

石川啄木著「明治四十一年日誌」明治四十一年一月二十一日
石川啄木全集 第五巻 筑摩書房 昭和53年4月25日 初版
石川啄木・釧路第1日目の足跡記念碑

2012, 2, 23
石川啄木・釧路第1日目の足跡記念碑

啄木が行李を下した浦見町の佐藤氏宅跡


啄木像と月

2011, 11, 9
啄木像と月

しらしらとこほりかがやき
千鳥ちどりなく
釧路くしろうみふゆつきかな

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

家族と離れ単身北の最果ての地・釧路についた若き23歳の啄木は何を想っていたのでしょうか。 

“さびしき町”は「釧路」であると、あらためてここから釧路の物語が始まること示しています。
しかしそんな“さびしき町”にも氷が輝き千鳥が鳴き、美しい月夜があるんだと、釧路の街にいざなっているようですね。

啄木の短い26年2ヶ月という生涯の中で釧路に滞在したのは、1908年(明治41年)1月21日からたった76日間でした。
しかしこの短い76日間は啄木にとって旧釧路新聞社の記者(正社員)として公私共に充実していた時であったと思います。

特に啄木にとって釧路での一番の想い出は、紅燈の街に繰り出し料亭での芸妓(げいぎ)たちとの出会いだったのではないかと思います。啄木は「紅筆便り」の取材を口実に寂しさのあまり毎晩のように料亭通いをしました。

米町公園

2009, 1, 28
米町公園

ある冬の月が美しい晩、芸妓と散歩した海岸。その海岸はこの米町公園の下に広がっていて、この歌はその想い出を詠んだものだと思います。この想い出は啄木の他の釧路の歌の風景としても詠まれているようです。

相生坂からの眺め

2011, 3, 1
相生坂からの眺め

水色の建物は「釧路シーサイドハイツ」です。
啄木は佐藤氏宅から洲崎町の「関下宿」に移りました。関下宿は当時この釧路シーサイドハイツの後ろの路地の向かいにあったようです。またハイツ手前のコンビニは当時「笠井病院」が建っていて、啄木との交友があった「梅川操(うめかわみさお)」さんという薬局助手が勤めていた病院との事です。啄木の小説「病院の窓」はこの梅川操さんがモデルとなったそうです。
当時はハイツのある場所は空き地で、啄木の下宿からこの病院の窓がよく見えた事でしょう。啄木が釧路を離れる直前に“不平病”の診察を受けました。

こほりたるインクのびん
かざ
なみだながれぬともしびのもと

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

「起きて見ると、夜具の襟が真っ白に氷つて居る。華氏寒暖計零下二十度。顔を洗ふ時シヤポン箱に手が喰い付いた。」「二階の八畳間、よい部屋ではあるが、火鉢一つを抱いての寒さは、何とも云へぬ。」「机の下に火を入れなくては、筆が氷つて何も書けぬ。」
と啄木日誌に書かれていますが、その寒さも然る事ながら、見知らぬ最果ての地釧路での誰一人頼れる人もいない生活が始まり、啄木のその時の不安感、侘しさ、哀しさが伝わってきます。

港文館

2011, 3, 1
港文館

煉瓦造りの美しい旧釧路新聞社社屋は啄木の釧路着任の前日に、現在の大町2丁目のガソリンスタンドのある場所に新築完成しましたが、昭和40年頃に地元の保存運動の甲斐も無く取り壊されてしまったそうです。その後釧路川河畔のこの地に当時の美しい煉瓦造りの「旧釧路新聞社社屋」の姿を復元して「港文館」として啄木の資料を展示しています。中には喫茶もありますので、散策のついでに立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

石川啄木著 小説「菊池君」より

 社は、支庁坂から真砂町を突切つて、海岸へ出る街路の、トある四角に立つて居て、小いながらも、ツイ此頃落成式を挙げた許りの、新築の煉瓦造、(これが此社に長く居る人達の、北海道に類が無いと云ふ唯一つの誇りであつた。)澄み切つた冬の空に、燃える様な新しい煉瓦の色の、廓然くつきりと正しい輪廓を描いてるのは、何様木造の多い此町では、多少の威厳を保つて見えた。主筆から見せられた、落成式の報告みたいなものの中に、「天地一白の間に紅梅一朶いちだの美観を現出したるものは即ち我が新築の社屋なり。」と云ふ句があつて、私が思はず微笑したのを、今でも記憶おぼえて居る。玄関から上ると、右と左が事務室に宿直室、奥が印刷工場で、事務室の中の階段はしごを登れば、二階は応接室と編輯局の二室ふたま

石川啄木著 小説「菊池君」
青空文庫様のファイルより抜粋

かほとこゑ
それのみむかしかはらざるともにもひき
くにはてにて

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

啄木は新聞記者<三面記事主任(総編集長待遇)>としての活躍が始まりました。
啄木が出社して驚いた事に、啄木が明治38年の秋に東京神田駿河台の養精館という下宿で一緒だった同郷出身の「佐藤衣川(さとういせん・本名巌(いわお)」という人物が三面の記者になっていた事です。
お互い違う人生を歩み、“顔”と“声”のみが昔と変わらない“友”にこの“さいはて”の地の同じ職場で再び出会った事に、啄木は人生の出会いの不思議さを感じていたのでしょう。実はこの佐藤衣川は後に啄木が釧路を離れる間接的な原因となる梅川操さんとの“ある奇妙な事件”を起こしてしまうのですが…。

佐野碑園

2011, 1, 28
佐野碑園

啄木が生まれて初めて酒と芸妓を知った「喜望楼」という料亭があった所です。

目をひくモダンな洋風建築の喜望楼は12人の芸妓を抱え、道東一の料亭と言われました。当時啄木をはじめ旧釧路新聞の記者がよく集まり、ニ階の五番の部屋の窓には“燃ゆるような紅のカアテン”が垂れて、その“暖かな部屋”を彼らは“新聞部屋”と呼んでいたそうです。
啄木日誌によれば一月二十四日、社長の招待で同僚らと初めてこの「喜望楼」を訪れ、小新と小玉という二人の芸妓が啄木にとって初めての“お相手”だったようです。この席で新聞の編集上の事を何かと相談し、後日釧路新聞の体裁は一新され、啄木は社長よりご褒美の銀側時計と五円を貰いました。
さらに啄木は一面に詞壇を設けて広く読者からの投稿を呼びかけ、また自ら大木頭というペンネームで「雲間寸観」という政界の風雲を書き、紙面の充実を図りました。
白石社長や佐藤国司から是非永く釧路に居てくれと言われ、家族を呼び寄せて社で家を世話するとも言われ、啄木も釧路を気に入ったようで、妻節子さんにその事を連絡しました。
ただご褒美の銀側時計は、後に「喜望楼」での呑み代として質屋に入れてしまいましたが…。

この場所はこの付近で事業を興した「佐野孫右衛門」を記念する園地となっておりますが、この他にかつて「久寿里(クスリ)会所(アイヌとの交易などを行う所)」「丸太学校(日進小学校の前身)」などがあった所でもあり、釧路発祥の地と言われております。

あはれかのくにのはてにて
さけのみき
かなしみのをりすするごとくに

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

ああ、あの“さいはて”の地で酒を飲んだなあ。悲しみの滓を啜るように。
酒を呑むと心の底に沈殿している滓(カス)が浮かんで来て、その悲しみの滓(カス)をすすっている心境だ。もっとも啄木は酒に楽しく酔えなかった(お酒に弱い)のかも知れませんが。

釧路の銘酒「福司」

釧路の銘酒「福司」

さけのめばかなしみ一時いちじるを
ゆめみぬを
うれしとはせし

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

前出の歌のように、酒を呑むと悲しみが湧き出てくるのですが、酒の力で熟睡してしまえば嫌な夢を見てないで済むので嬉しいと思った。酒は悲しさを思い出させ、そして忘れさせてくれる不思議なモノなのです。

石川啄木歌碑

2011, 3, 1
石川啄木歌碑

しぬけのをんなわら
みき
くりやさけこほ真夜中まよなか

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人 

突然どこかの部屋からだろうか、女性の笑い声が聴こえ、啄木はその声に身震いした。それは、厨(台所)にある酒も凍る厳冬の真夜中での出来事であった。
啄木はまだまだこの頃は料亭の雰囲気には慣れてなかっただろうし、料亭でなくても女性の甲高い笑い声は男性にとってはなんとなく不気味に聴こえるものです。

わがひにこころいためて
うたはざるをんなありしが
いかになれるや

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人 

啄木が酔いつぶれた時、心配して歌を歌わなかった芸妓がいた。今どうしているのだろうか。
啄木がひいきにしていた芸妓は「小静」「市子」そして「小奴」と変わっていきました。
喜望楼の小静さんは「よく笑ひ、よく弾き、よく歌ふ」「煙草が尽きて帰る、帰りしなに小静は隠していた煙草を袂に入れてくれた。」こんな心遣いに大人の魅力を感じたのでしょうか。

鹿島屋の市子さんは当時17歳(満16歳)。とても可愛く啄木は随分ひいきにしたようですが、幼すぎて啄木が心の底から寄り添える程の存在では無かったうです。

鶤寅の井戸

2011, 1, 28
鶤寅の井戸

料亭「鶤寅(しゃもとら)」のあったところ
この井戸水は美味で昔から飲料水や酒の醸造に使われていましたが、現在は水質が悪くなり飲むことは出来なくなりました。
料亭「鶤寅」は喜望楼の料理番を勤めていた「近藤寅二郎」が、浦見町の演武館前に明治34年10月2日に開業しました。四年後に全焼したものの明治38年12月20日に新築されました。喜望楼と肩を並べるほどの釧路の一流料亭でしたが、大正6年10月19日に突然廃業しました。

やがて啄木は料亭鶤寅にいた「小奴」(こやっこ)さんという芸妓を気に入るようになりました。

「小奴のカツポレは見事であつた。」
「小奴と云ふのは、今迄見たうちで一番活潑な気持ちのよい女だ。」

文学少女であり、唄も踊りも群を抜いていた小奴さんに、啄木は恋のような感情を少しずつ抱いていきました。同様に小奴さんも。啄木23歳、小奴さん19歳の時でした。

小奴こやつこといひしをんな
やはらかき
耳朶みみたぼなどもわすれがたかり

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人 

小奴の長い長い手紙に起される。先夜空しく別れた時は“唯あやしく胸のみとどろき申候”と書いてあつた。相逢ふて三度四度に過ぎぬのに何故かなつかしいかと書いてあつた。“君のみ心の美しさ浄けさに私の思ひはいやまさり申候”と書いてあつた。
(略)
葡萄酒を飲んで小奴へ長い長い手紙の返事を長く長く書いた。俺の方では、名も聴かなかつた妹に邂逅した様に思ふが、お身は決して俺に惚れては可けぬと

石川啄木著「明治四十一年日誌」明治四十一年三月十一日
石川啄木全集 第五巻 筑摩書房 昭和53年4月25日 初版

月の影に波の音。噫忘られぬ港の景色ではあつた。“妹になれ”と自分は云つた。“なります”と小奴は無造作に答へた。“何日までも忘れないで頂戴。何処かへ行く時は屹度前以て知らして頂戴、ネ”と云つて舷を離れた。歩き乍ら、妻子が遠からず来る事を話した所が、非常に喜んで、来たら必ず遊びにゆくから仲よくさして呉れと云つた。

石川啄木著「明治四十一年日誌」明治四十一年三月二十日
石川啄木全集 第五巻 筑摩書房 昭和53年4月25日 初版

「妹になれ」…家族を小樽に残して単身厳冬の釧路に来た啄木が、心の支えとして小奴さんに兄妹という関係で寄り添っていたいと思っていたのでしょう。函館時代の「橘千恵子」さんに対してはどちらかと言うと啄木の一方的なはかない片想いだったようですが、小奴さんに対しては何かとても親しい兄妹のような関係を望み、そして小奴さんの前では気取らず自然体でいる事ができ、放浪の身の寂しさ苦しさを忘れる事ができたのでしょう。

一握の砂「忘れがたき人人 一」で、「小奴といひし女の…」から「その膝に枕しつつも…」までの十ニ首は、小奴さんを詠んだものと言われています。

知人海岸にて

知人海岸にて

啄木は知人岬(米町公園)下の海岸が気に入ったらしく、何度か友人や芸妓たちと散歩していますが、特に3月20日に小奴さんと二人でその海岸を散歩した時の描写は美しく、釧路の忘れがたき想い出として啄木の心の中に強く残っているのでしょう。
なお当時の海岸はもう今は埋め立てられてしまいましたが、そこから少し離れた知人集落にある海岸は昔にタイムスリップしたような静かなところで、今にも啄木と小奴さんが仲良く歩いて来そうな雰囲気があります。

啄木日誌より

三月二十日 …(略) 一時間許りして鶤寅に鞍替。…(略)…

 既にして小奴が来た。来てすぐ自分の耳に口を寄せて、“佐藤国司さんが心配してるのよ”と云ふ。何をと云ふと、“小蝶姐さんがネ、石川さんには奥様も子供さんもあるし、又、行末豪くなる人なんだから、惚れるのは構はないけれども、失敬しては可けないツて私に云つたの。”と云つて、“可笑いのネー。”と笑つた。自分も亦哄然として大笑した。“ほんとに可笑いのネー。”と奴は再云つた。
 十二時半頃、小奴は、送つて行くと云ふので出た。菊池とは裏門で別れた。何かは知らず身体がフラフラする。高足駄を穿いて、雪路の悪さ。手を取合つて、埠頭の辺の浜へ出た。月が淡く又明かに、雲間から照す。雪の上に引上げた小舟の縁に凭れて二人は海を見た。少しく浪が立つて居る。ザザーツと云ふ浪の音。幽かに千鳥の声を聴く。ウソ寒い風が潮の香を吹いて耳を掠める。
 奴は色々と身の上の話をした。十六歳で芸者になつて、間もなく或薬局生に迫られて、子供心の埓もなく末の約束をした事、それは帯広でであつた。渡辺の家に生まれて坪に貰はれた事、坪の養母の貧婪な事、己が名義の漁場と屋敷を其養母に与へた事、嘗てその養母から、月々金を送らぬとて警察へ説諭願を出された事、函館で或る人の囲者となつて居た事。釧路へ帰つてくる船の中で今の鶤寅の女将と知つた事。そして、来年二十歳になつたら必ず芸者をやめるといふ事。今使つて居る婆さんの家は昔釧路一の富豪であつた事。一緒に居るぽんたの吝な事、彼を自分の家に置いた原因の事。
 月の影に波の音。噫忘られぬ港の景色ではあつた。“妹になれ”と自分は云つた。“なります”と小奴は無造作に答へた。“何日までも忘れないで頂戴。何処かへ行く時は屹度前以て知らして頂戴、ネ”と云つて舷を離れた。歩き乍ら、妻子が遠からず来る事を話した所が、非常に喜んで、来たら必ず遊びにゆくから仲よくさして呉れと云つた。郵便局の前まで来て別れた。…(略)… 

石川啄木著「明治四十一年日誌」明治四十一年三月二十日
石川啄木全集 第五巻 筑摩書房 昭和53年4月25日 初版

啄木が「一握の砂」の中で小奴さんを詠んだと言われている十ニ首です

(※なお、本文と写真とは関係ありません)

幣舞橋・道東の四季「春の像」

2011, 3, 1
幣舞橋・道東の四季「春の像」

小奴こやつこといひしをんな
やはらかき
耳朶みみたぼなどもわすれがたかり

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

ここから小奴さんの歌が始まります。
啄木にとって小奴さんが最果ての地釧路での忘れ得ぬ人でありましたが、その小奴さんを表現する時に「やわらかき耳朶」を挙げています。この「やわらかき耳朶」は啄木にとって小奴さんの一番印象に残るものであり、肉体的にも感覚的にも小奴さんを記憶していると捉えられますね。

よりそひて
深夜しんやゆきなか
をんな右手めてのあたたかさかな

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

三月二十日の啄木日誌より、「妹になれ」「なります」と啄木と小奴さんが囁きあった、あの美しい月夜の知人海岸の思い出の一コマでしょう。
二人は見つめ合ったまま、じっと深夜の雪の中に立っていました。小奴さんの右手のなんと温かだった事でしょか。啄木と小奴さんの心が一つになった瞬間です。

にたくはないかとへば
これよと
咽喉のんどきずせしをんなかな

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

「死にたくはないか」と問えば、小奴さんは「これ見よ」と喉の傷を啄木に見せた。
啄木日誌を読むと、小奴さんは幾度となく啄木に自分の身の上話を語っていますが、彼女は心にとても深い傷を負っている事が伺えます。そんな“心の傷”を啄木に即座に見せるのは、啄木をとても信頼し、わかり合える間柄だったという事ですね。

幣舞橋・道東の四季「夏の像」

2011, 3, 1
幣舞橋・道東の四季「夏の像」

芸事げいごとかほ
かれよりすぐれたる
をんなあしざまにわれへりとか

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

「かれ」とは小奴さん、「かれより優れたる女」とは小奴さんの先輩であり売れっ子の「小蝶」さん(明治時代以前は男女とも「彼」と表現していた)。芸の技も顔も小奴さんより優れた小蝶さんが、我(啄木)の事を悪く言ったとか…。
実は妻子のある啄木が小奴さんととても親しくなって、その事を心配して小蝶姐さんが忠告しているという話のようです。

へといへばちてひにき
おのづから
悪酒あくしゆひにたふるるまでも

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人 

「舞え」と啄木が言えば小奴さんは立って舞ってくれました。自ずから悪酒の酔いに倒れてしまいそうになるまで。
啄木を想う小奴さんの気持ちがそうさせてしまうのでしょう。

ぬばかりふをまちて
いろいろの
かなしきことをささやきしひと

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

啄木が死ぬほど酔うのを待って、自分の悲しき身の上話を耳元で囁いた小奴さんであった。
啄木がそこまで酔わなければ小奴さん自身の悲しき思いを語れなかった。これも啄木を思いやっているのかもしれません。

幣舞橋・道東の四季「秋の像」

2011, 3, 1
幣舞橋・道東の四季「秋の像」

いかにせしとへば
あをじろきひざめの
おもてひてみをつくりき

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

啄木が「どうしたのか」と問うと、小奴さんは青白い酔い覚めの顔で無理に笑みを作った。
小奴さんが酔い潰れている事を心配する啄木だったが、小奴さんも自分が酔っている事を気付かせまいと無理に笑みをつくった。啄木への愛情がとても感じられます。

かなしきは
かの白玉しらたまのごとくなるうでのこせし
キスのあとかな

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

「腕に残るキスの痕」とは、泥酔客が「キス」をもとめて乱暴な振る舞いをして残した痕(歯型)という事ですが、“その白玉のような”純真無垢な腕に残されたのはキスの痕ではなく、表からは見ることの出来ない若者独特の“愛の傷痕”、つまり啄木と小奴さんとの“愛のキズ痕”とも感じられます。“その白玉のような”腕を見せられて啄木は人を愛する事の悲しみを覚えたのではないのでしょうか。

ひてわがうつむくとき
みずほしとひらくとき
びしなりけり

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

酔って自分の俯く時も、水が欲しいと目を開く時も、呼んだ名前であった。
啄木の心の支えとして、いつも小奴さんが存在していました。

幣舞橋・道東の四季「冬の像」

2011, 3, 1
幣舞橋・道東の四季「冬の像」

をしたふむしのごとくに
ともしびのあかるきいへ
かよひれにき

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

紅燈の街に足を踏み入れた頃は、深夜の厨からの女性の笑い声に身の毛がよだつほど驚いた啄木でしたが、いつしかそんな紅燈の街にも客として通い慣れるほどになってしまいました。
自分が唯一心休まる小奴さんと酒の待つ明るき料亭へ、まるで自分が自滅すると知りながら“火をしたふ虫”のように。

きしきしとさむさにめばいたきし
かへりの廊下ろうか
不意ふいのくちづけ

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

料亭での「宴」が終わった後でしょうか、寒さで冷え切った廊下で不意に熱く口づけを交わしました。啄木23歳、小奴19歳、お互い若かったのです。

そのひざまくらしつつも
がこころ
おもひしはみなわれのことなり

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

小奴さんの膝に枕しながら、啄木の考えていたのは自分の事ばかりであった。
考えていたのは自分の今の哀れな境遇と中央(東京)へのあこがれだったのかもしれません。

以上十二首が啄木と“妹”小奴さんとの甘くもせつない“歌物語”です。


港文館前の石川啄木像

2011, 3, 1
港文館前の石川啄木像

さらさらとこほりくづ
なみ
いそ月夜つきよのゆきかへりかな

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

再び、月夜の美しい知人海岸での啄木と小奴さんの散歩の回想ですね。

「忘れがたき人人 一」では、詠まれている人などを区別するために、このように歌を区切るような“切断”する歌が挿入されているそうです。

にしとかこのごろきぬ
こひがたき
さいあまりあるをとこなりしが

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

死んだとこの頃聞いた。それは恋敵で、とても才能のある男であったが…。
その才能のある恋敵とは盛岡中学時代の同級生・小野弘吉という人であったと言われています。

十年ととせまへにつくりしといふ漢詩からうた
へばとなへき
たびいしとも

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

北東新聞の記者であり盛岡出身の「菊池武治」を歌ったものと言われています。
菊池武治は啄木の小説「菊池君」のモデルとなった人です。

啄木日誌より

菊池君は漢文にアテられた男である。正直で気概があつて、為に失敗をつづけて来た天下の浪士である。年将に四十、盛岡の生れで、恐ろしい許りの髯面、昔なら水滸伝中の人物、今なら馬賊と云つた様な人物。

石川啄木著「明治四十一年日誌」明治四十一年三月二十日
石川啄木全集 第五巻 筑摩書房 昭和53年4月25日 初版

三月二十六日
(略)
 夜、北東の奇漢子菊池武治君が来た。自分で手を打って女中を呼んで、ビールを三本云附けた。横山君も来て飲む。既にして唐詩を吟じ出した。自分も吟じた。鷲南筆をとって柳暗花明の詩をかく。

  柳暗花明楼又楼
  月高沈曲響愈幽
  艶姿二人倚欄立
  笑弄春風心暗愁

 慷概淋漓、九時頃帰る。
 世の中は色々だ。過去に生くる人、現在に生くる人、未来に生くる人。酒に生くる人もあり、理由もなく生くる人もある。
 横に見た人生は未解決だ。涯が無い。波と波。-結論は虚無。

石川啄木著「明治四十一年日誌」明治四十一年三月二十六日
石川啄木全集 第五巻 筑摩書房 昭和53年4月25日 初版
けあらしの立つ幣舞橋

2009, 1, 28
けあらしの立つ幣舞橋

ふごとに
はながぴたりとこほりつく
さむ空気くうきひたくなりぬ

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

呼吸をする度に鼻がぴたりと凍りつくあの厳冬の釧路の空気を吸いたくなった。
「こほりたるインクの罎を火に翳し」「顔を洗ふ時シヤポン箱に手が喰い付いた」「机の下に火を入れなくては、筆が氷つて何も書けぬ」「厨の酒が凍る真夜中」…こんな未だ啄木がかつて経験したことの無い自然環境であった厳冬の釧路時代をふと懐かしく回想し、哀しく辛い想い出も今は懐かしく忘れがたいものとなった。

なみもなき二月にがつわん
白塗しろぬり
外国船がいこくせんひくうかかべり

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

深夜に小奴さんと散歩した「しらしらと氷かがやき千鳥なく」「さらさらと氷の屑が波に鳴る」美しき海は、昼間はのんびりとして白塗りの外国船が浮かんでいました。
何気ない風景を詠んでいますが、啄木は東京そして海外へも強くあこがれていたという事が察せられます。

三味線さみせんいとのきれしを
火事かじのごとさわありき
大雪おおゆき

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

鹿島屋の市子さんを歌ったもの。
啄木は当初可愛くお転婆な性格の市子さんをひいきにしていました。ただ幼さゆえに寄り添えることが出来ず、小奴さんと知り合うと、市子さんから離れていきました。
啄木が釧路の女性を歌う時「女」と表現していますが、この市子さんに限り「子」と表現しているところからも啄木の目には幼く写ったのでしょう。

紅筆便りから

▲鹿島屋と云へばコレモ一昨五日の晩の事例の市ちやん三味線の一の絃を切らしたので縁起がよいと許り踊り上がって喜びお客の居るのも忘れて母さん姉さん叔母さん三味線の一が切れたよと家中躍り廻り候由

石川啄木著 「紅筆便り」
「釧路新聞」明治四十一年三月七日
石川啄木全集 第八巻 筑摩書房 昭和57年2月15日 初版第3刷

▲去る二十四日の朝の事に候鹿島屋の市子が浦見町の真砂湯へまゐり候処、どうしたものか女湯の方に一つも湯桶が無かつたので大胆にも男湯の方から二つ三つ取つて来むものと度胸を据ゑ抜足差足男湯の方へ侵入したまではよかりしが湯桶に手をかけた拍子に「オイ市ちやん此方へ這入れ」と濛々たる湯気の中から大声をかけられ吃驚仰天して桶も手拭も三間許り彼方へ投げ出しドシンと許り尻餅をついた体よろしくアノ可愛い目玉グル〲させたとは近頃キツテの珍聞に御座候先づはあら〱かしこ。

石川啄木著 「紅筆便り」
「釧路新聞」明治四十一年二月二十八日
石川啄木全集 第八巻 筑摩書房 昭和57年2月15日 初版第3刷
米町公園から遠く望む阿寒の山々

2011, 1, 28
米町公園から遠く望む阿寒の山々

かみのごと
とほ姿すがたをあらはせる
阿寒あかんやまゆきのあけぼの

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

朝日に照らされた白き阿寒の山々のなんと神々しい事でしょうか。

啄木は故郷の岩手山を…

ふるさとのやまかひて
ふことなし
ふるさとのやまはありがたきかな

石川啄木「一握の砂」煙ニ 

と詠んでいます。
故郷の山である岩手山は身近にいつもいる「母」のような暖かな有り難い存在でありいつも心の中にそびえているのですが、釧路で遠く望んだ白き阿寒の山々は「神」のような近寄りがたい存在であり、北の大地の大自然の美しさに感動したのでしょう。

郷里くににゐて
身投みなげせしことありといふ
をんな三味さみにうたへるゆふべ

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

自分の寂しさを忘れようと芸妓の三味線にあわせて歌う啄木。実はこの芸妓も故郷では身投げしようとした事もあるという。この最果ての地でお互いめぐり合い、自分の寂しさとその芸妓の境遇を重ね合わせた。

葡萄色えびいろ
ふる手帳てちやうにのこりたる
かの会合あひびきときところかな

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

色あせた古い手帳に、釧路時代の紅燈の街の想い出が残されていた。
芸妓たちとの密かな逢い引きの想い出がよみがえる。

啄木日誌より

釧路に来て玆に四十日。新聞の為には随分尽して居るものの、本を手にした事は一度もない。此月の雑誌など、来た儘でまだ手も触れぬ。生まれて初めて、酒に親しむ事だけは覚えた。盃二つで赤くなつた自分が、僅か四十日の間に一人前飲める程になつた。芸者といふ者に近づいて見たのも生まれて以来此釧路が初めてだ。之を思ふと、何といふ事はなく心に淋しい影がさす。
 然しこれも不可抗力である。兎も角も此短時日の間に釧路で自分を知らぬ人は一人もなくなつた。自分は、釧路に於ける新聞記者として着々何の障礙なしに成功して居る。噫、石川啄木は釧路人から立派な新聞記者と思はれ、旗亭に放歌して芸者共にもて囃されて、夜は三時に寝て、朝は十時に起きる。
 一切の仮面を剥ぎ去つた人生の現実は、然し乍ら之に尽きて居るのだ。
 石川啄木!!!

石川啄木著「明治四十一年日誌」明治四十一年二月二十九日
石川啄木全集 第五巻 筑摩書房 昭和53年4月25日 初版
本行寺

2012, 3, 15
本行寺

この本行寺は「歌留多(かるた)寺」として有名で、現在本堂に啄木の資料を展示してあります。
啄木も幾度となく歌留多をしに通ったようです。

実は啄木がこの歌留多会で「小菅まさえ」さん(本行寺の娘“三尺ハイカラ”)と出会い、すぐに「娘の手は温かであった」という程の仲良になって、後に彼女に付きまとわれたり(三尺事件)、その小菅まさえさんからの手紙を啄木に届けた下宿向かいにある笠井病院の薬局助手「梅川操」さんにも啄木はなんとなく気があったりと、自ら女性問題のタネを蒔いていたようです。

まあ、啄木は“多情”な故に“優しい”人間であり、裏を返せば“優柔不断”な人間であったのではないでしょうか。
ただ梅川さんに対しては、「危険な女」であると啄木は感じ、小奴さんのように心を全て許すような態度では無かったようです。

一輪いちりんあか薔薇そうびはな
いきすなる
くちをこそおも

石川啄木

この歌は一握の砂には収められていませんが、釧路で詠まれた歌と言われています。
「赤い薔薇の花」は、三月十七日に啄木の下宿に梅川操さんが花瓶にさして持ってきた“燃ゆる様な”造花の薔薇の花で、「火の息すなる唇」と表現したほど梅川操さんに対しては(危険な女と思いながらも)何かしら気になる感情を抱いていたのかもしれませんし、梅川さんも啄木へ同様な感情を抱いていたのかもしれません。

翌日にはこんな出来事がありました。

隣の横山君の室に三尺の声がする。十分許りして帰つた様子。横山が来ての報告によると、態々呼びつけて今後此下宿に訪ねぬ様忠告してやつたとの事。七時頃一寸外出。
 三尺は必ず梅川に寄つて行つたに違ひない。何と云つたらうといふので、横山から梅川へ手紙をやつた。今行きますといふ返事。軈て来た。泣いて居る。涙がとめどもなく流れる。何といふても泣いて居る。此女も泣くのかと思つた。
 漸々にして解つた事は、三尺が帰りに寄つて、“今後石川さんに途中で逢っても言葉もかけぬから御安心なさい”と云つて行つた事。上杉君が先刻来て、三尺の事を云つた時、何か気に障る言を発したとかで、アトで口惜しくて口惜しくて、一人人の居ない診療所に入つて声を放つて泣いた事、そこへ衣川子が来て親切な言を以って慰めた事。そして頻りに泣く。横山も自分も、殆んど持余した。

石川啄木著「明治四十一年日誌」明治四十一年三月十八日
石川啄木全集 第五巻 筑摩書房 昭和53年4月25日 初版

よごれたる足袋たび穿とき
気味きみわるきおもひにたる
思出おもひでもあり

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

わがへや女泣をんななきしを
小説せうせつなかことかと
おもひづる

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

啄木をめぐる、三尺(本行寺の娘小菅まさえさん)と梅川操さんの三角関係のようです。上杉さん(新聞社の同僚、元物理の先生)という第三者から気に障る事を言われて口惜しくて泣いたからには、梅川操さんはやはり啄木に気があったようですね。

ある日の深夜、啄木が下宿で小奴さんと横山さんと三人で呑んでいたら、梅川さんが一人で下宿を訪れました。見ると髪は乱れ、目は吊って、色は物凄く蒼ざめてやつれた顔をしていました。

這入つて来て、明い燈火に眩しさうにしたが、“あまり窓が明かつたもんだから、遂……”と挨拶をする。“これは梅川さん、これは私の妹”と紹介すると、“おや貴女は小奴さんで”と女は挨拶。顔を上げた時、唯一雫、唯の一雫ではあつたが、涙が梅川の目に光った。
 横山と二人で、頻りに目で語つて見たが、一向要領を得ぬ。今時分、若い女が唯一人、怎して歩いて居たのだらう。それは、よしや此女の性格として、有りうべからざる事で無いにしても、今時分下宿屋に居る男を訪問するとは何事だ。且つそれ其の顔色は、と幾何疑つても少しも解らぬ。唯、今夜は此女の上に何かしら大事件があつたのだナと云ふだけが、明瞭に想像せられる。

石川啄木著「明治四十一年日誌」明治四十一年三月二十一日
石川啄木全集 第五巻 筑摩書房 昭和53年4月25日 初版

啄木は不快感を感じながらも、梅川さんを部屋へ通しました。しかし梅川さんは何時までたっても帰りません。
どうやら小奴さんとの根比べをしているかのようです。
一時になり二時になり、三時になっても帰りません。遂に四時になり、ようやく梅川さんは帰って行きました。
小奴さんは「お呪符」を二つやったので帰ったのだと無邪気に云って笑っていました。

「“私が勝つたんだから、これを貰つてつても好いでせう”」

かくして梅川さんが数日前に持ってきた一輪の造花の薔薇の花は、小奴さんのものとなりました。

「奴の帰つた時、自分は云ひ知れぬ満足を感じて、微笑を禁じ得なかつた。」

啄木も梅川さんが身を引いてくれたので、満足感に浸っていたのでしょう。ここでも小奴さんと梅川さんの三角関係のような事が起きました。
ところが翌日、啄木が前夜想像していた通りに佐藤衣川と梅川さんが関わる“不愉快”な事件が起ったという事を知りました。
啄木はこの事件にひどく憤りを感じました。

歌にある

「よごれたる足袋を穿く時の気味わるき思ひ出」

とはこの“不愉快”な事件の事であると思われます。

「不愉快で、不愉快でたまらない程世の中が厭になつた。」

この“不愉快”な事件以降、啄木の日記にはこのような釧路を嫌う言葉が散見され、啄木が釧路を離れる一つの原因であったとも言われています。やはり啄木は“危険な女”梅川操さんにも何かしらの感情があったのではないかとも取られます。

「夢が結べぬ」
「つくづくと、真につくづくと、釧路がイヤになつた。噫。」

啄木は新聞社を欠勤するようになります。俗に言う“不平病”です。
欠勤が続く啄木に、ついに白石社長からの決定的な電報が届きました。

ビヨウキナヲセヌカヘ、シライシ
(原文のまま)

「歩する事三歩、自分の心は決した。啄木釧路を去るべし、正に去るべし。」

“さらば”
 啄木、釧路に入りて僅かに七旬、誤りて壷の中の趣味を解し、觴を挙げて白眼にして世を望む。陶として独り得たりとなし、絃歌を聴いて天下の楽となす。既にして酔さめて痩軀病を得。枕上苦思を壇にして、人生茫たり、知る所なし焉。
 啄木は林中の鳥なり。風に随つて樹梢に移る。予はもと一個のコスモポリタンの徒、乃ち風に乗じて天涯に去らむとす。白雲一片、自ら其の行く所を知らず。噫。
 予の釧路に入れる時、沍寒骨に徹して然も雪甚だ浅かりき。予の釧路を去らむとする、春温一脈既に袂に入りて然も街上積雪深し。感慨又多少。これを訣別の辞となす。

石川啄木著「明治四十一年日誌」明治四十一年三月二十八日
石川啄木全集 第五巻 筑摩書房 昭和53年4月25日 初版

梅川さんや小菅さんらの女性問題、社長からの電報、「日景主筆」との確執、放蕩生活による借金、料亭喜望楼の女将による啄木と小奴との仲を引き裂こうと思われる行為、東京への憧れなどが複雑に絡まりあって“不平病”つまり「心の病」を患い、釧路を離れる原因となってしまったと言われています。その他、釧路の寒さも要因の一つかと思われます。

啄木は小奴さんの家に行き、「最も素人らしく撮れた小奴さんの写真」を貰いました。

4月2日、啄木は本日午後6時に出航する安田の石炭運搬船酒田川丸で釧路を離れ函館に向かう事を決意、しかし出航は翌日に延期、その日は休坂の梅月庵で「今迄に無い程美味い酒」を飲み、休坂を通りかかった芸妓の市子さんとてるちゃんを店に呼び入れて蕎麦を食べました。すでに荷物をたたんでいたので今日は丸本という旅館に泊まります。翌日船に乗船、しかし石炭の積み込みが終っていないため出航はさらに延期、ようやく3日後の1908年(明治41年)4月5日啄木を乗せた船が釧路を離れます。

四月五日
 七時起床。荷役の人夫に頼んで、ハガキを三枚出す。石炭を積み了って七時半抜錨。波なし。八時港外に出た。氷が少し許り。
 後には雄阿寒雌阿寒の両山、朝日に映えた雪の姿も長く忘られぬであろう。知人岬の燈台も、程なくして水平線上に没した。…(略)…

石川啄木全集 第五巻 筑摩書房 昭和53年4月25日 初版

啄木はすっきりとした様子で遠ざかる釧路の風景を眺め、東京での文学活動の実現に向けて想いを巡らしていた事でしょう。 

浪淘沙らうたうさ
ながくもこえをふるはせて
うたふがごときたびなりしかな

石川啄木「一握の砂」忘れがたき人人

一握の砂「忘れがたき人人 一」の章を締めくくる歌。
「浪淘沙」とは「浪淘沙詞」の意味で、江辺の商人の妻が遠く家郷を離れた夫を憶う情を述べた唐詩。
遠ざかる釧路の風景を眺めつつ、啄木は唐詩でも吟じていた事でしょう。

この一握の砂「忘れがたき人人 一」の章は、啄木の渋民村退去から北海道函館、札幌、小樽、釧路と放浪した漂泊の一年に出会った人々との想い出を詠んだ歌を、町ごとに時間的順序を考えながら配置されているそうです。

石川啄木 離釧の地

2016, 1, 27
石川啄木 離釧の地

啄木が釧路から船で旅立った場所は米町公園下のあたりで、現在は埋め立てられていますが、当時は波止場でした。
この場所にある建設会社の前には「石川啄木離釧の地」という解説板が立っています。

新聞記者・石川啄木は、この地の周辺にあった波止場から艀で沖に停泊する酒田川丸(239トン)に乗船して釧路を去った。宮古港に一時寄港し、四月七日夜函館港に着いた。

明治四十一年四月五日 日誌

七時起床。荷役の人夫に頼んで、ハガキを三枚出す。石炭を積み了って七時半抜錨。波なし。八時港外に出た。氷が少し許り。
 後には雄阿寒雌阿寒の両山、朝日に映えた雪の姿も長く忘られぬであろう。知人岬の燈台も、程なくして水平線上に没した。

釧路の滞在期間は七十六日と短かった。しかし啄木の生涯の中で、釧路時代の暮らしは人生のオアシスと言える日々であった。

神のごと
遠く姿をあらはせる
阿寒の山の雪のあけぼの

冬の磯
氷れる砂をふみゆけば
千鳥なくなり月落つる時

浪淘沙
ながくも声をふるはせて
うたふがごとき旅なりしかな

平成二十四年四月五日
株式会社濱谷建設

– 解説板より –

– 解説板より –


啄木は上京し、自己実現のため文学活動を始めました。

上京して間もないある日、啄木が東京の街を歩いていると、釧路の薬局助手の「梅川操」さんと偶然会いました。彼女は造花を学ぶために上京しているのだという。実は啄木の釧路新聞の退社広告を見て上京してきたようで、梅川さんは「頻りにセンチメンタルな事を云つては“奇妙ですねー。”と繰返した」そうで、彼女の希望で上野の山の色あせた八重桜の下を散歩しました。梅川さんは啄木の気を引こうと思っていたのかもしれませんね…。

また、12月には小奴さんが大阪炭鉱の重役と共に上京し、啄木を尋ねて来るというハプニングがありました。啄木と小奴さんは数日間の短い逢い引きを楽しみました。


啄木は相変わらずの貧困と借金生活が続き、文学活動の行き詰まりなどにより“自暴自棄”に陥り、長男真一の死、啄木自身の病気(慢性腹膜炎・所謂結核)による入院、父の家出、母の死と不幸が次から次へと啄木を襲い、退院し自宅療養するも1912年(明治45年)4月13日、啄木は妻節子さんや家出していた父一禎、親友の金田一京助、若山牧水らに看取られながら、27歳(26歳と2ヶ月)で永眠しました。


小奴さんは後年、母の経営していた角大近江屋旅館を継ぎ、近江ジンと名を改めました。
その後、小奴さんは富山そして東京に移り住み、1965年(昭和40年)2月17日東京多摩の老人ホームで76歳で亡くなりました。

この角大近江屋旅館は現在はもう残っていませんが、くしろバスの「1系統たくぼく循環線」のバス停「小奴の碑」付近にあったそうです。

南大通にある小奴の碑

2011, 3, 8
南大通にある小奴の碑

南大通にある小奴の碑

2011, 3, 8
南大通にある小奴の碑

この碑には次のように刻まれています。

明治四十一年一月二十一日 石川啄木は妻子をおいて単身釧路に来る
同年四月五日当地を去るまで釧路新聞社に勤め記者として健筆をふるえり

 あはれかの国のはてにて
 酒のみき
 かなしみの滓を啜るごとくに

当時の生活感情を啄木はこのようにうたう
当時しゃも寅料亭の名妓小奴を知り交情を深めり

 小奴といひし女の
 やはらかき
 耳朶なども忘れがたかり

 舞へといへば立ちて舞ひにき
 おのづから
 悪酒の酔ひにたふるるまでも

漂浪の身に小奴の面影は深く啄木の心をとらえ生涯忘れ難き人となれり
小奴また啄木の文才を高く評価し後年旅館近江屋の女将となり七十有余年の生涯を終るまで啄木を慕い通せり

今 此小奴ゆかりの跡にこの碑を刻み永く二人の追憶の記念とす

昭和四十一年十一月
朝日生命保険相互会社

馨葉書

「小奴の碑」碑文より

小奴さんは晩年、このような歌を残しました。

君と共に逝きし若さもなつかしや亡き啄木を語る春の夜

近江ジン(小奴)

六十路過ぎ十九の春をしみじみと君が歌集に残る思出

近江ジン(小奴)

– 釧路啄木祭に啄木の旧友間島琴山先生の来られし時に –

笠井病院の薬局助手・梅川操さんは小山操と名前を改め、昭和42年9月13日、弟子屈の養老院で病死しました。


釧路小学校付近

2010, 10, 9
釧路小学校付近

この樹が気持ち良く茂る歩道の左側は釧路市立釧路小学校です。旧日進小学校、旧東栄小学校、旧柏木小学校を統合して旧日進小学校の校舎に開校されました。朝夕は登下校の子供達の元気な歓声であふれています。
この釧路小学校は啄木の頃は釧路第一学校と言って、啄木が釧路新聞社着任の6日後に「愛国婦人会釧路支部」の新年互礼会において「現代の婦人について」という題で啄木が自分の“婦人論”を講演しています。

家族ホームてふ語は美しき語なり。然れども過去の婦人にとりて、此美しき語は、一面に於て体のよき座敷牢たるの観なきに非ざりき。新時代の婦人は、今や家庭の女皇なる美名のみには満足せざるなりぬ。篭を出てて野に飛べる彼等は、単に交際場裡や平和的事業に頭角を現わすに止まらずして、個人としては結婚の自由を唱へ、全体としては政治上の権利を獲得せむとす。吾人は此新現象を以て、単に文明の過渡期に於ける一時的悪傾向として看過する事能はず。何となれば之実に深き根拠を有する時代の大勢なればなり。深き根拠とは他なし、婦人の個人的自覚なり。婦人も亦男子と共に同じ人間なりてふ白明の理の意識なり。

石川啄木 -その釧路時代- 鳥居省三著
 釧路新書7 平成17年7月1日 第5版第6刷
旧東栄小学校

2010, 9, 11
旧東栄小学校

この釧路市立東栄小学校は、現在は釧路小学校に統合され廃校となっています。
啄木の頃は釧路第三学校と言っていました。啄木は3月8日に児童学芸会があるので訪れてみたが大雪のため会は延期、その上積雪のため下宿に帰ることは出来ずここに泊まる事となりました。布団四枚に男八人、夢も結べないほどの大荒れだったようです。その後3月15日に延期となった学芸会が開催され、臨席した啄木は子供達と半日遊びました。

休み坂

2011, 1, 28
休み坂

この坂、啄木の下宿から当時啄木がよく通っていた料亭「喜望楼」「鹿島屋」「鶤寅」に通うのにいちばん近道の坂です。啄木も毎日のようにこの坂を登り下りした事でしょう。
また当時、この坂の途中に梅月庵という蕎麦屋があって、啄木も何度となく利用したようです。

「紅筆便り」から

 近頃紅筆帳に材料つきて兎や角と思ひわづらひ居候処へ休坂奇談小若雪中廼歌といふ珍聞を耳にいたし候儘不取敢一筆染めし上げまゐらせ候▲一昨夜は十時十分頃の事見番前よりゾロ〱と休坂を下りて行く一団七人の男女連何れもコートに帽子外套といふ扮装なれば鹿とも馬とも判明致さず候ひしも「這麼こんな雪路を誰が為の難義でせう、ネ辻さん」と云ふ甘き語は確か助六妓にてモ一人の丈の低きコート姿は小若裙なること相違無御座候千鳥足危気に右へヒヨロ〱左へヒヨロ〱辷り易き坂路を凭りつ凭られつ辿り乍ら小若例の金切声を有らん限り振上げて「これほどおツ拡げて翳してるのに、主は……」といふ歌を節もしどろに歌ひ出し候声折柄の港の暗を破りて遥かに阿寒山に反響し候由然も坂上の見番の前から坂下の曲林の入口までの間に同じ歌を都合十三回歌ひ候ふとは当夜の薬の利加減大方察せられ候と申事に候かしこ。

石川啄木著 「紅筆便り」[「釧路新聞」明治四十一年三月六日]
石川啄木全集 第八巻 筑摩書房 昭和57年2月15日 初版第3刷

今は静かな休み坂ですが、当時は賑やかな所だったようですね。

武富私道(武富小路)

2011, 1, 28
武富私道(武富小路)

この坂は、富豪武富氏が丘の上の邸宅から当時の中心街である真砂町まで、自力で開削し整備した道です。

この付近は見晴らしが良かったので、昔はたくさんの料亭が立ち並んでいて賑やかだったようです。

啄木が通った料亭の一つ「鹿島屋」もこの付近にありました。三味線の音が早暁まで絶えることが無かったほど繁盛していたようです。抱え芸妓は五人。啄木のお気に入りの芸妓の一人市子さん(17歳)もこの料亭におりました。

旧田村邸

2011, 1, 28
旧田村邸

1900年(明治33年)に渡邊虎蔵氏が建てた商家住宅。現在釧路で最古の木造住宅です。昭和24年、田村桂次氏の所有となり、平成元年、釧路市に寄贈されました。
現在、米町ふるさと館として、喫茶の他、啄木の資料なども展示されております。

啄木のいた時代の貴重な建物ですね。

米町本通

2011, 1, 28
米町本通

米(コメ)屋孫右衛門儀兵衛(米屋は1866年(慶応2年)に姓を賜って「佐野」を名乗る)の孫である四代目佐野孫右衛門がクスリ場所(釧路におけるアイヌとの交易の場所)の請負人を務め、また、函館や東北から174戸637名を募り、この地に移住させました。そして、住民の利便性を高めるために私費を投じて幅四間、長さ七丁の市街地道路を開削しました。これが「米町本通」となりました。
これらの事業を始めとして孫右衛門は地域の発展に寄与しましたので、このあたりは米(コメ)町と呼ばれるようになりました。昭和7年の町名地番改正時も米屋の功績を考慮して、従来から使用していた「米町」の名称を継続することとしました。

参考:シリーズ「ふるさとの地名めぐり」釧路地方の地名由来
 釧路地方の地名を考える会 釧路新聞連載

現在は“よねまち”と呼んでいるようです。

この米町本通は、明治半ばから大正初期にかけて旧安田炭鉱の石炭を運ぶために馬車鉄道(安田の馬鉄)が敷設されていたそうです。
石川啄木もこの馬車鉄道に出会っていたことでしょう。
その後、運炭ルートは釧路埼灯台下の海岸沿い(現在の臨港線のルート)に変更され、米町本通の軌道は撤去されました。

たくぼく循環線のバスが来ました。

たくぼく循環線“たくぼくバス”

2008, 5, 28
たくぼく循環線“たくぼくバス”

たくぼく循環線“たくぼくバス”

2008, 5, 28
たくぼく循環線“たくぼくバス”

たくぼく循環線“たくぼくバス”

2009, 6, 25
たくぼく循環線“たくぼくバス”

「釧路駅前バスターミナル」でこんなバスに出会って、釧路が放浪の歌人石川啄木のゆかりの地であることを知りました。
車体には啄木の五編の短歌と肖像画が描かれています。また車内には啄木の解説や短歌が展示されています。
なんかとても旅情を誘うバスですね。

なお、現在は残念ながら通常の塗装になりました。

さいはての釧路駅に下り立ったら、私なりの啄木を思い描きながら旅すると面白いと思いますよ。

たわむれに母を背負って、その軽さに泣いて、三歩も歩けなかったのも啄木
はたらいてもはたらいても生活は楽にならず、ぢっと手を見たのも啄木
小奴という芸妓の、柔らかな耳たぶが忘れられないほど仲が良かったのも啄木なのですから。

石川啄木は小説家になりたかったようですが、彼の小説は全く売れませんでした。しかし彼の残したたくさんの短歌や日誌は、彼の人生を記した“小説”そのものだったのかもしれません。

<参考文献>

  • 石川啄木 -その釧路時代- 鳥居省三著 釧路新書7 平成17年7月1日 第5版第6刷
  • 石川啄木全集 第五巻 「日誌」石川啄木著 筑摩書房 昭和57年2月10日 初版第5刷
  • 石川啄木全集 第八巻 「紅筆便り」石川啄木著 筑摩書房 昭和57年2月15日 初版第3刷
  • 啄木歌集全歌評釈 岩城之徳著 筑摩書房 1987年2月5日 初版第3刷
  • 石川啄木歌集全歌鑑賞 上田博著 おうふう 2001,11,23 初版
  • 一握の砂 石川啄木著 近藤典彦編 朝日文庫 2008年11月30日 第1刷
  • 忘れな草 啄木の女性たち 山下多恵子著 未知谷 2006, 9, 5
  • 26年2ヶ月 啄木の生涯 松田十刻著 もりおか文庫 2009,11, 1
  • 「ふるさとの地名めぐり」釧路地方の地名由来(釧路地方の地名を考える会)釧路新聞連載
  • 港文館展示資料
  • 石川啄木と小奴 野口雨情著
     (青空文庫様のファイルより)
青空文庫
  • 一握の砂 石川啄木著
     (青空文庫様のファイルより)ルビは朝日文庫を参考に振ってあります。
青空文庫
  • 菊池君 石川啄木著
     (青空文庫様のファイルより)
青空文庫
  • 石川啄木全集 第五巻 「日誌」筑摩書房 昭和57年2月10日 初版第5刷
  • 石川啄木全集 第八巻 「紅筆便り」筑摩書房 昭和57年2月15日 初版第3刷

(注)

※文中の人物の年齢は全て数え年です。…生まれた時を一歳とする年齢の数え方

引用文中、「〲」、「〱」は、踊り字(繰り返しを現す反復記号)です。

SL冬の湿原号の写真、幣舞橋四季の像の写真は、本文とは関係ありません。(イメージです)


釧路散歩 – 石川啄木 –

Posted by でぇあぶつさん