今日も墓参り、夕食は「まぐろのカマ焼き」
早朝、スマホのエリアメールが鳴動して、「警戒レベル4」相模原市に避難指示!?
「ひばり放送」でも本村市長が何か言っていましたが、二重サッシなので良く聴こえなかった。
私の住んでいるところは危険な箇所は無いと思うので大丈夫かと思います。
外は大雨で、そしてとても寒い。
朝の気温は18度ぐらいしかなくて、半袖半ズボンでは寒い。釧路の夏の気温だねぇ…。
寒くて再び朝寝、旅行して洋式トイレを探す夢を見て、どこへ行っても和式トイレばかりで、仕方なく和式で済ませた…そんなつまらない夢でした。
お昼は「おろしざるそば」を作りました。作るって程ではないですが、乾麺を茹でる、大根をおろす、コーヒーは淹れて粗熱を取って氷を入れるだけ。つゆはめんつゆ。
午後は少し雨が小降りになったので、ひとりで親戚(母方)の墓参り。
雨の中なので、お盆中日でも殆どお参りの方はいらっしゃらなかった。
親戚の叔父は太平洋戦争時(終戦の年の5月)、フィリピンのルソン島で戦死しました。赤紙(徴兵)で招集され出征して、現地?から「仲間と楽しく美味しいスイカを頂いています」という手紙が届きましたが、間もなく戦死の知らせがきたと。遺骨は無く現地?の石だけが入った骨壺が届いたそうです。怒った母方の祖父は"ふざけるな❗"と骨壺を叩き割ったとか。スイカの手紙も上官から無理に書かされたのかと思われます。
親戚の墓の隣に戦死した叔父の墓が別に建てられています。また、靖国神社にも祀られています。
今は亡き私の父は、徴兵で旧日本海軍で国内の兵役に就いたそうですが、出征することなく無事帰還しました。父の話では終戦の年の5月では燃料も乏しく、叔父は果たしてフィリピンまで行ったかどうかという事でした。
父は「艦船勤務」という軍歌が好きで、私が小さい頃、良く聴かされていました。特に5番目の“熱鉄身を灼く夏の日も~”というフレーズが好きだったようです。あと、消灯ラッパの話「新兵さんはかわいそうだね、また寝て泣くのかよ」と聴こえるとか、手旗信号を間違えると、上官から顔がひん曲がるぐらいぶん殴られる…鉄拳制裁が常だったという話も良くしていた。父は事あるごとに「親の言う事を聞かない奴は『薪雑把』でけつっぺたをぶっ叩くぞ」が口癖でしたが、これも旧日本海軍時代の体験が元かと。お袋はそんな父に、子供にそんな話するんじゃない!と喧嘩していましたが、父は淋しそうだったなぁ…。
戦後、父は庁舎新築のため飯倉本庁舎に転勤した事もありましたが、その近くの「狸穴(まみあな)」というところに“防空壕”の跡があって、夜な夜な“日本兵の幽霊”が出るという噂で、庁舎の守衛さんも何度もそれを見て腰を抜かしたとか。そのような事もあってか“防空壕”の跡も入口が埋められたそうで、現在は恐らく跡形もなく再開発されているのでは、と思います。
その幽霊は本当に行き場を失った本物の日本兵が放浪していたのではとも考えられます。
今は亡きお袋は、戦時中、"学徒動員(学徒勤労動員)"で市内の軍需工場で「旋盤工」として、"戦闘機のネジ"を作っていたと言う。父は、戦闘機の部品を学生が作っているようでは、まともに飛ぶわけないよなぁ、と良く茶化していたのを覚えています。あと、「竹槍」でB29(米軍の爆撃機)を撃ち落とす訓練をやったとか。今から思えばバカバカしい事やってたわと。
父もお袋も、私達の"青春"は、ずっと「戦争」の中だったと話していたのが印象的でした。
こんな事もあって、私は“戦争アレルギー”にはならず、旅先で戦争遺産や戦争の碑文などに出会うと、興味を持ってしまいます。私のブログ(サイト)にも、時々戦争の事が登場しているのもそのためです。
まあ、戦後、国外で戦死された日本兵の遺骨収集も進まず、昨今のコロナ対応についても行き当たりばったり、コロナが発生して1年以上もたつのに、国民に制約をしいるばかりで国として殆ど対策をしない。この国は戦時中と変わりなく国民に命令するばかりで、果たして国民の事を本当に考えているのか疑問が残ります。まあ、次の選挙ではこのことをよく考えてから投票ですね。そう、投票です。投票なのですよ❗️
夕食は「まぐろのカマ焼き」
昨日のまぐろのカマの残りに塩を振って暫く置いて、水で洗い、水を切って、キッチンペーパーで水分を拭き取ります。この段階で臭みがかなり消えました。
フライパンに油、まぐろのカマの骨側を下にして弱火、蓋をして30分ぐらい焼き、ひっくり返して15分ぐらい焼きます。
最後にみりんと醤油をかけて、照り焼き風にしました。
下処理をして、分厚くてもフライパンでじっくりと焼くととても美味しく出来上がりました。骨から身離れも良かった。
これはお買い得でした。
今日の夕食です。
体重74.6
体脂肪率27.5
血圧105/70
脈拍74
2回目
104/70
73