釧路散歩 – 戦跡 –
釧路に戦争の遺構が残っていないかと釧路の人に聞いたのですが、…「東京にも残っていないだろぅ?それと同じだよ」…という答えでした。※1
ネットや地元の新聞の記事などで、釧路にトーチカ(特火点)が存在するという事が分かりましたので、探してみる事にしました。
トーチカは太平洋戦争の戦況が悪化した昭和19年頃、旧日本軍(陸軍)が米軍の上陸に備えてコンクリートなどで急遽造った防衛陣地で、銃を構える銃眼が空けられています。
網走、根室、釧路、十勝などのおもに海岸、海岸を見下ろす高台などに今でも多数残っています。
大楽毛のトーチカ
JR新大楽毛駅から程近い住宅街に、トーチカが一基忽然と現れます。
宅地の一区画に建っているので、不思議な印象を受けます。
2011, 7, 1
大楽毛のトーチカ
コンクリート製です。
2011, 7, 1
大楽毛のトーチカ
別の角度から。
夏草に埋もれています。
この一画だけが戦時中のまま、時の流れが止まった感じです。
2011, 7, 1
大楽毛のトーチカ
銃眼が開けられています。
阿寒川河口のトーチカ
JR新大楽毛駅の隣の大楽毛駅に程近い、阿寒川の河口に一基トーチカがありました。
2011, 7, 1
阿寒川河口のトーチカ
半分崩れている感じです。
レンガ製です。
夏草に埋もれていました。
2011, 7, 1
阿寒川河口のトーチカ
2011, 12, 16
阿寒川河口のトーチカ
冬の様子です。
新野(大楽毛)のトーチカ
新野(大楽毛)の丘の麓にあるトーチカ。
2011, 12, 3
新野のトーチカ
丘の麓にあり、土に埋められていた感じのトーチカです。
道路より望遠レンズで撮影しています。
これは2011年撮影ですが、現在は手前にソーラーパネルが設置され、このように望むことはできなくなりました。
新富士のトーチカ
根室本線新富士駅近くの住宅街、家と家の間にトーチカがあります。
2011, 1, 27
新富士のトーチカ
以前、釧路の方の話として、「終戦後の住宅難でトーチカを家(の一部)として利用された方もいる」ということで、このトーチカもそのようなものかもしれないと思われますが、詳細は不明です。
反対側は新富士駅貨物ターミナルに面しているので立ち入れませんが、コンテナが無い時は根室本線の列車の車窓から望むことができます。
また、釧路の方の話では、昔は新富士から大楽毛の海岸にトーチカが多数残されていたようですが、工場や道路の造成などで殆ど壊されてしまったそうです。
興津(おこつ)海岸のトーチカ
最近グーグルマップに掲載され、初めて知りました。岩を利用したトーチカで木枠の銃眼がまだ残っています。
2022, 11, 15
興津海岸のトーチカ
付近はとても波が荒いです。
2022, 11, 17
興津海岸のトーチカ
木枠の銃眼が残る
桜ヶ岡電探(レーダー)基地跡
これはトーチカではなく、旧日本軍の司令部のような施設と言われていましたが、最近グーグルマップに「電探(レーダー)基地跡」と登録されました。
「炭鉱喫茶 珈琲坂」のマスターの話では、ここは四方が開けた丘の上で、電波がとても通り易いのでそのような基地が作られたという。
煙突は、基地内でディーゼル発電をしたので、その排気を逃がすためのものという事でした。
2022, 11, 15
桜ヶ岡電探(レーダー)基地跡
2022, 11, 15
桜ヶ岡電探(レーダー)基地跡
2011, 1, 31
桜ヶ岡電探(レーダー)基地跡
四代目幣舞橋親柱
釧路市立博物館の玄関の陰に、ひっそりと「四代目幣舞橋親柱」が保存されています。
2012, 11, 12
四代目幣舞橋親柱
この柱は次のような経緯があります。
四代目幣舞橋親柱
釧路で最初の永久橋の頭部をかざった親柱である。南橋詰の下流にすえられた柱で、釧路空襲の爆撃で川底に沈められた。五代目幣舞橋のかけかえで、30年ぶりに引き揚げられた。
解説板より
栄町平和公園
戦前、「栄町平和公園」付近は木造住宅密集地域だったため、空襲により火災が発生し、多くの方々が亡くなりました。
2018, 5, 26
栄町平和公園
碑文より
終戦の年、昭和二十年七月釧路市は激しい空襲に見舞われ、多くの市民の尊い命や財産が失われました。
本年は戦後五十年にあたり、釧路市が「核兵器廃絶平和都市」宣言をして十周年を迎えました。
ここにかっての被災地の中心である栄町公園を「栄町平和公園」と改称して、戦争の悲惨さを次の世代に伝え、永年の平和を願うものであります。平成七年八月十五日
碑文より
釧路市長 鰐淵俊之
2011, 10, 20
栄町平和公園
2022, 8, 2
戦災記念碑
2022, 8, 2
戦災記念碑
碑文より
戦災記念碑
ここにあった悲しみと
碑文より
苦しみの日を
永久に
語りつがねば
ならぬ
2022, 8, 2
戦災記念碑
碑文より
あの日みた 蒼い空
心の安らぎ 愛
その深く重い よろこびを
力をつくして 永く伝えよう
鐘とともに
祈りをこめて平成七年八月十五日
碑文より
釧路市長 鰐渕俊之
2023, 9, 14
栄町平和公園にて
西港臨海公園 慰霊之碑
戦後も戦禍が続く
2011, 11, 8
西港臨海公園 慰霊之碑
JR根室線 新富士駅に近い西港臨海公園の片隅に「慰霊之碑」があります。
これは戦後、炊事遠足に来た釧路の小学校の児童が、流れ着いた爆弾に触れて死傷するという惨事を慰霊する碑です。※2
昭和四十年十月五日共栄小学校六年生三百五十七名がこの海岸に炊事遠足をしていました
その時 流れ着いた爆発物によって一瞬にして四名の尊い命が奪われ 四十数人が重軽傷を負う悲しい事故がありました
子供の世界は いつも平和と幸せが約束されていなければなりません 二度とこんなことがないよう すべての子らが 明るく 強く育つようにと父母が願いをこめてここに慰霊之碑を建立しました
祈冥福
(ここに四名の児童の名前が刻まれています。)昭和五十二年十月五日
銘版より
新富士海岸共栄小学校炊事遠足事故
慰霊碑建立期成会
※1 実は東京にも戦争の遺構が残っています。
※2 この爆弾について釧路の方(喫茶珈琲坂のマスター)に伺ったところ「終戦後、不要となった旧日本軍の兵器(爆弾)は火薬を抜きスクラップにして五円玉硬貨等に再利用されたが、残ったものは釧路臨港鉄道で知人まで運び、船で知人沖に海洋投棄された」という話でした。